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勢福寺城
【せいふくじじょう】


神埼(かんざき)郡神埼町大字城原字北外にあった城。背振山地南麓で佐賀平野を望む城山(じようやま)(196.1m)に設けられた山城。「肥前国神崎荘史料」大治元年3月条の「櫛田社大宮司職事〈既畢〉」に「成福寺社」とあり,成福寺社があったことがわかる。しかし築城年代ははっきりしない。応安8年2月日田原氏能軍忠状(入江文書/大分県史料10)に「至于同八月二十二日宰府凶徒没落之期,於御手励忠功,自当御陣御移城山之時,致御共,其後為手分,属右衛門佐殿(今川直氏)御手,於日隈御陣,両年令堪忍,致忠節畢」とみえ,直氏の指揮下に活躍した田原氏能の軍忠状にみえる「城山」は勢福寺城のことと思われ,一説には正平年間九州探題一色範氏の子で,肥前守護の直氏が築城したともいわれる。東肥前の要衝にあったため城主がしばしば交代したらしい。「北肥戦誌」巻7に「斯くて大内の軍兵,勢竜の水を得て,則ち太宰府へ入替り,爰を本陣と定め,陶尾張守興房・同安房守を大将とし,其勢二万余騎,勝野尾城へ向ひ,(中略)筑紫下野守満門・東弾正少弼尚頼が両勢多く討たれ,満門・尚頼大内に降参す。高経今は叶ひ難く,勝野尾の城を落ちて,神崎松崎庄勢福寺城〈城原といふ〉へぞ入りにける」とあり,明応6年大内の部将陶興房以下2万の兵に攻められ,高経(少弐政資の子)は勢福寺城に逃げたが,さらに勢福寺も攻められて小城の晴気城に逃げている。また巻17に「斯くて豊後の三将,神埼勢福寺の城を攻めけるに,城主江上武種頓て降参す」とあるように,永禄12年大友軍勢に降服し,大友氏に味方したが,今山の陣で勝った竜造寺氏の攻撃を受けて和を結び,隆信の子家種が江上氏の養子になった。天正17年には家臣と共に蓮池城に移された。遺構としては土塁・空堀・郭がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217392