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背振山
【せふりさん】


脊振山とも書き,「背」と「脊」の字が両用されることが多い。神埼(かんざき)郡脊振村と福岡県福岡市西区早良(さわら)町との境にある山。標高1,055.2m。背振山地の主峰で,山体は花崗岩からなる。「脊振路」によると,山名の別称は,上宮ケ岳・弁財天岳・脊布利山・世布利山・茶降山・千振山・ソホル山などがあり,ほかに国鎮岳・岳などとも称した。古来聖山として信仰され,脊振神社が鎮座し,頂上に上宮がある。山名の由来について,「肥前古跡縁起」に「脊振山極楽東門寺,乙護法善神は天竺国の主,徳善大王十五番の王子也,神通自在の人にて在し,竜馬に乗り虚空をかけり東方に去り給ひ,此国の鬼門当山に飛付給ふ,時に彼竜馬背振て空に向ていななく事三度,此瑞相を本として,即山の名を背振山と申すとかや」と記している。また,「玉林苑脊振山霊験記」には「肥前の国に霊峰あり,国鎮岳と号す,絶頂に霊穴あり,二竜出現して脊を振う時に,山動き地震う。故に脊振山と号す」とある。さらに貝原益軒の「筑前続風土記」には「里人の言伝うるは,古,弁財天百済よりここに来り給う時,乗り給ひし馬の脊振りたる故に脊振山と名付けたり」とある。そのほか栄西禅師が茶の種をまいたのは,神埼郡東脊振村字坂本の北方,石上坊の境内であったと伝えられ,その後,しばしばその茶樹を切るが,すぐに生えるので,時の人は,茶の木が天から降るといって,山名を茶降山と名づけ,それが変じて脊振山になったという伝説や,また秦の始皇帝が不老不死の薬を求め,徐福を日本に派遣し,徐福がこの山で求めた薬は今の千振(せんぶ)りで,それが脊振になったという説もある。「脊振神社蔵古書」によれば,「此国に一霊峰あり国鎮岳と号す。本朝開闢の当初金輪霊泉湧出して,九州鎮護の盤材となり。其岳至高にして長遍且復瑞雲を帯ぶ,其状至円にして自ら如意の宝珠を表す。絶頂に霊窟あり,二竜常に出現し背を振う時,山が動き地震う,故に脊振山と号す。此山肥筑両国に跨って,近く境す此脊振山と称す。中古以来対上宮請下宮故に絶頂を上宮岳と謂う。誠に海西の法窟九州無跡の霊跡なり。人皇十五代神功皇后三韓御退治の時此山に御駐蹕の間御祈誓あり,御帰朝の後肥前の国造奉勅として斎場を建つ。これ故に皇后の御願所と称す,年々の祭は九州より之を勤め,常住の行事は当肥前国より之を調す。其事を能く勤者比福を蒙る故に其地を神幸と云い後神埼郡というは此に縁する也。人皇三十代欽明天皇十三壬申岳上に紫雲簇生して異様なり,金光天に輝き瑞彩地を照す。諸人奇異の思を成す処に天下太平護法安国と定め異賊襲来を防ぐ,仏法東漸の前表を顕し給う。此旨を叡聞に達す。勅使下向あり,頂上に至る時二竜出現して,天女の嘉瑞維新也。乙天形を現し尊天出現の霊託あり是脊振弁才天,天下に称揚す。日本国六所弁才天出現の霊地なり所謂,芸州厳島,江州竹生島,相州江の島,紀州天の川,摂州箕面,肥州背振山……聖徳太子三宝興隆の御願を以って,諸国に寺院建立の事有り,此山に東門寺の号を賜い,法華経千部奉納あり,九州最初の伽藍四天王を安置し,仏法王法の守護神と為す。以行寺に当るは一夏修行し,常行三昧の砌とする。千日採灯の行者と成れば入峰し儀式を定め,上宮岳に登って経典を読誦す。武蔵山より当山まで東曼陀羅とし当山より松浦鏡山まで西曼陀羅とす。当山は即金胎不二の道場とす。一度歩を運ぶ輩は永く三悪に離る。頭を煩し希う者,皆悉地に満足す二条院御宇九国二嶋病患毒虫多し。就中肥筑二国其憂に忍ぶ能はず。国守之を上に奏聞す。先跡を追って筑前を肥前との界の大峰に執行し,鬼難を止む可旨鳥羽院御勅願所に宣下あり,肥前国牛尾山別当房法印琳海導師と為り,国中の山伏を率いて,永暦元年二月十五日,始めて入峰し東西の峰を踏み上宮岳にて之を勤云々。元禄五年八月在日初巳 多聞房」と記している。当山一帯には多くの遺跡がある。「元禄十年……肥前侯従四位下兼侍従信濃守藤原朝臣綱茂謹誌」と棟銘にある石宝殿,山頂の石祠と同時に建てられた石碑群,役行者の石像などである。また,竜の池は「宴曲抄」によれば「背振山の頂に竜池あり。この池水底の石面に金の銘をあらわし,竜宮大城に通して,仏法所持の門とす。……一乗菩提の法行いし処を,金胎両部の窟と言う,其跡今なお存す,役行者という」とあり,旱魃の時この池を混ぜると,直ちに雨が降るという伝説の池で,昭和34年航空自衛隊の野球場開設で大部分は埋められたが,一部保存されている。乙天護法堂は,東脊振村大字松隅字坂本にあり,和銅2年に元明天皇の勅を奉じて湛誉上人が創建し,九州第一の大伽藍とした。その後,皇慶阿闍梨,性空上人,栄西などの高僧が住し,佐賀藩主鍋島直茂のころ一時再興したが,明治維新に禄制が廃止され,現在では荒涼たる山中に霊仙寺の跡,乙護法堂の小字があるだけであるが,この付近一帯は脊振千坊の中心をなした地域である。和銅2年湛誉上人が勅願によって創建した霊仙寺は,脊振千坊の元締であり,九州における仏教文化の中心,修験道場でもあった。これらは,山岳仏教のメッカとしてこの山の昔をしのばせる。山頂近くには,自衛隊のレーダー基地(もと米軍のレーダー)や昭和26年完成したレーダー気象観測所がある。山頂からは,肥前・筑前の平野部が展望できることから,当山をめぐる数々の戦記が残っている。南北朝期,九州探題一色直方の軍と菊池武光方の軍との戦い(肥前旧事),天正6年竜造寺隆信が西筑前の大友軍を攻めるとき,城原勢を先陣として当山を越えて早良郡(現在の福岡市)に討ち入った戦い(九州治乱記)などがあった。また,山頂をめぐる鍋島藩と黒田藩との境界争いもあった。「脊振路」の「肥前脊振弁財岳境論」によれば,天和2年秋肥前と筑前との間に,背振山の境界論争が起こった。当山は南北に肥筑の両平野を展望する要害の地で,鍋島・黒田両藩にとっては互いに居城を敵の俯瞰にさらす,藩の防衛上重要な位置にあったため境界争いは長引いた。その争点は山頂にある弁財天の帰属の問題と弁財岳の頂上から,半里も南にある平地(篠平)を筑前側が開墾するという問題であった。元来,両藩は九州屈指の雄藩で友好関係にあったため,藩廷が表面に立って争うことを互いに避け農民の名によって平和裡に解決を図ったが,論争は解決しなかった。元禄3年筑前の提案で幕府に上訴され,同6年数回の公判を経て判決が下り,10余年続いた境論争も肥前の勝訴となった。肥前の勝訴を記念する石灯籠が一部残っている。当山は,昭和11年フランス人飛行家アンドレ・ジャピーがパリ~東京間100時間飛行に失敗し,墜落したが無事救出された所としても知られる。北部九州を東西に走る筑紫山脈の最高峰であるため,福岡市民にとっても便利で,ハイキングコースとして利用が多く,背振北山県立自然公園,九州自然歩道の一角をなす。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217404