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高木城
【たかきじょう】


佐賀市高木瀬(たかきせ)町東高木にあった城。佐賀平野の平坦地に築かれた平城。高木貞永が久安年間に築いたといわれるが,高木城の初見は「鎌倉遺文」文永8年8月27日条の「尊光〈国分忠俊〉寺領寄進状」のなかに記す四至の「限北高木城」である。また建長5年8月17日条の「将軍〈宗尊親王〉家政所下文書」に「高木屋敷」とある。高木氏の祖先は藤原氏で,大宰大弐として赴任した中納言藤原文時の子文貞が肥前国司として国府(現大和町惣座)に赴任して甘南備(かんなび)城を築き,その孫貞永の時から高木姓に改名したのは高木に築城したからであろう。文永・弘安の両役では戦功をたてたが,その時活躍した人物として「北肥戦誌」巻1に「肥前国に高木伯耆六郎家宗」とあるように高木家宗がいた。南北朝期には足利氏に属していたが,室町末期頃には竜造寺氏と争うようになり,やがて敗れて衰退し廃城となった。「北肥戦誌」巻13に「天文廿三年甲寅三月,竜造寺隆信,高木能登守鑑房を征伐あるべしと,軍兵を率して佐嘉の居城を打出でらる。されば彼の鑑房は,天児屋根命の御末中関白道隆に廿一世の苗裔にて,昔は当国一の大名なり。されども中頃,北条時頼入道〈最明寺殿〉,諸国抖擻の時,当家の先祖聊か疎略ありしより家衰へ,其上今の鑑房,去る天文十七年に,仔細あって他国へ浪人し,近年帰国したる後は,僅に先祖の地肥前国東高木を知行して,即ち高木村に在城しけり」とあり,竜造寺氏に敗れるまでの過程が詳細に述べてある。館跡を確認中である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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