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高木町
【たかぎまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は佐賀城下の1町。寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ。十間堀川の南岸,佐賀城の北東に位置する。東西に長くのびた町で,長さは289間9尺9寸。西は呉服町の北端,北は高木町裏小路,南は上芦(かみよし)町と接し,東は正蓮寺の北方の井樋を境とする。竈数は,承応3年佐賀城廻之絵図では東高木町102・西高木町112,元文5年屋敷帳では150。嘉永7年の総竈数は184(明家17)。同年の当町の竈帳は3冊分が欠如しているため,竈数全体の内訳は不明だが,残存分のみを記すと,人数770(男383・女387),身分別竈数は侍1・手明鑓1・家来4・徒士3・中小姓1・足軽37・職人1・被官32・その他の有姓者3・僧1・町人83,とくに多い職種の竈数は日傭取19・落雁屋4。落雁屋が多いのは,当町や北側の高木町裏小路に寺院が多いからであろう。北ならびの東より39軒目に足軽で五人組頭,咾(おとな)役をつとめる醤油屋古沢家があり,柳町などにも仕切借屋を有しているので相当の資産家である。嘉永7年の竈数を宗派別に示すと一向宗・禅宗各62,ついで浄土宗24・法華宗13。西端に一向宗願正寺があり,慶長5年頃の創建。関ケ原の役に際し西本願寺唯如が保護してくれた恩義に報いるため鍋島氏が建てたもので,開山は熊谷寿閑。当寺は領内の西本願寺派寺院の法頭職を勤め,末寺から開山番料を徴収する権限があった。また元禄9年から時鐘をついて町民に時を知らせた。願正寺の南側に一向宗専称寺がある。開山の正因はもと伊予国の河野氏一族で岡平右衛門といい,出家してはじめ神埼(かんざき)郡姉川に寺を構え,慶安年間に現在地に移建した。高木町裏小路の西端には一向宗正雲寺があり,開基は常順だが,由緒書紛失のため創建年代は不明。境内には下今宿町の豪商蒲原家の墓や慶応3年のパリ万国博覧会に派遣された佐賀本藩使節の1人深川長右衛門の墓がある。正雲寺の西隣に日蓮宗勧照院があり,小城(おぎ)の松尾山光勝寺の末寺で敷地2反2畝29歩は御免地。もと小城郡大寺村にあり,延宝年間に現在地に移建。承応年間の城下図には観照院の東隣に円光院という寺院が記されているが,現在は恵徳院という日蓮宗系の祈祷寺になっている。境内には文化7年にたてられた地蔵菩薩像がある。高木町裏小路の東端近くに曹洞宗光福寺があり,観世音菩薩を本尊とし,敷地1反4畝は寛永年間に御免地になった。「旧高旧領」では高38石余とある。「明治7年取調帳」では枝町に上芦(かみよし)町がある。「明治11年戸口帳」によれば,戸数179・人口687。明治22年佐賀市に所属。昭和43年佐賀市上芦町・東田代町・大財(おおたから)町・牛島町・巨勢町牛島の各一部を合併。同44年一部が佐賀市呉服元町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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