100辞書・辞典一括検索

JLogos

5

田古里村
【たごりむら】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。藤津郡のうち。風配(かざはや)高原に源を発して東流する田古里川流域に位置し,東は有明海に面する。「慶長国絵図」では高来(たかぎ)郡内に村名がみえ,浦村1,970石余のうちとある。村高は「正保国絵図」「天明村々目録」では437石余,「天保郷帳」では511石余。「旧高旧領」にはみえない。「玄梁院様配分帳」「大小配分石高帳」ではともに諫早(いさはや)豊前が地米高314石余を知行する。反別は,田地35町余・畑地32町余・屋敷13歩(天保3年諫早領調)。立地上,半農半漁的な性格をもつ。万延元年の郷村帳によると,小村に今里・牟田・津の浦・道越・か禰りがある。寛延2年の御家騒動に端を発する農民の訴願に対し佐賀藩主は,諫早領のうち14か村3か年召上げの断を下したが,当村もその中に含まれていた。鎮守は浅間神社で,「村社々地東西22間・南北19間,反別1反3畝15歩,木華開屋姫尊ヲ祀ル。村ノ字今里ニアリ由緒不詳」(藤津郡村誌)とある。山梨県浅間神社の分霊で,諫早家の保護を受けてきた。仏閣として浄土宗授徳山正伝院がある。本山は京都知恩院。慶長17年運誉感達和尚の開基。慶長17年村に悪疫が流行し悪魔退散祈願の折に,通りかかった感達和尚が,村人の願いにより3日3晩念仏を唱えた。その結果悪疫は遠ざかったと伝えられる(太良町史)。本尊は立像2尺5寸の阿弥陀如来像。「明治7年取調帳」では大浦村の枝村としてみえ,「郷村区別帳」にはみえない。「明治11年戸口帳」には大浦村のうちに「田古里村」とみえ,戸数187・人口792。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217547