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田代宿
【たしろしゅく】


鳥栖(とす)市田代にあった長崎街道に沿う宿駅。対馬藩領であったことから代官所も置かれた。次の原田宿(筑前黒田藩領)まで1里32町,轟木宿まで1里であった。田代付近には段丘が複雑に出入しているが,代官の陣屋は上町に置かれ,御茶屋(上使屋)は代官所に近い下町に置かれた。御茶屋の西には高札場や一里塚もあった。明暦元年には上町・下町・外町3町に新町・昌元寺町2町が加わって5町となり,町並みは10町1間半となり,東西の入口に構口(木戸)が設けられた。当宿の両端には藩政期の追分石も現存している。旅籠屋は延宝4年4軒に制限された。この制限がいつ解除されたかは不明。天明5年当宿の人馬賃銭は本馬1匹1里につき24文が41文に,軽尻(半駄)1里につき12文が21文にそれぞれ改定された。ケンペルの「江戸参府紀行」に「我等は新しき馬にて轟木村の門外なる瓜生野村を過ぎ,半里にして前記の田代に至る。五,六百の人家と,僅少の街路と数箇の門とあり。数年前に,将軍は周囲の村落とともにこれを肥前侯より取り上げて,対馬侯に与へたるが,そは対馬侯が高麗に対する島々のみ領有すればとて,大陸にも少しく所領を保たんと欲したるが故なり」と記している。シーボルトの「江戸参府紀行」に「われわれはなお一里すすんで,肥前と筑前領の境にある田代に着いた。ケンペルは,この地方は彼が来た当時には対馬藩主が領地として受けていたと,報告しているし,実際にまたその通りであった。田代が二一の村とともに属している基肄郡は九州の他の二,三の領地と同じく当時天領として没収されたのを,対馬藩主に領地として与えた」と対馬藩領になった理由を述べている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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