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丹生川村
【たんじょうがわむら】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。藤津郡のうち。「にぶのかわむら」ともいう。嬉野(うれしの)盆地の西南部,塩田(しおた)川の右岸に位置する。佐賀本藩領と蓮池(はすのいけ)藩領。嬉野郷に属す。村高は「正保国絵図」「元禄国絵図」「天明村々目録」とも239石余,「天保郷帳」は274石余。「旧高旧領」には見えず。蓮池藩領の地米高は「玄梁院様配分帳」「大小配分石高帳」とも183石余。天明元年~4年の本支藩の藩境紛争の結果,石の境界標識(番号石)を183個設置。その際の家数は,山地を占める本藩領分19,平地の蓮池藩領分103(泰国院様御年譜地取)。嘉永4年の村絵図によれば,平地は塩田川の右岸流域に広がっており,集落が平地の山寄りの地に見える。集落の東南隅に寺院,また東方には上丹生神社がある。北西山中には山神の除地がある。集落はほかにも塩田川沿いや,平地の東端を南北に流れる小川の上流にも見える。山地は御山・野方が混在し,山麓に山田・山畑がある。川上丹生神社は大和丹生川神社の分霊を勧請したと伝えられ,塩田川流域の六丹生神社の総本社。地名は同社にちなむという。なお,弘法大師が托鉢の途中当地に到り,大和丹生川上の地に似ていると述べたことに由来するともいう。寺院には臨済宗瑞光寺の末寺長延寺(廃寺)がある。地内の柱松には周囲3間の松があり,長崎街道を通る旅人はこの松を目標にしたという。長崎街道が大村藩領に抜ける際の難所に俵坂峠があり,本藩領と蓮池藩領の境界に俵坂口番所が置かれていた。同番所は佐賀本藩の南目の番所と呼ばれ重要な場所であった。蓮池藩が管轄し,侍1人・足軽9人が詰めたが,長崎に事件が起きると増員された。この足軽は足軽格の百姓で,番所近くに居住していた。このため枝村俵坂村と称されることもあった。彼らの所持する田は谷間の日陰地のため収穫が少なく,たびたび9人分8石1斗の手当米の前渡しを願い出ている(蓮池藩諸役所日記)。「明治7年取調帳」には不動山村の枝村として見える。「明治11年戸口帳」によれば不動山村のうちに「丹生川村」と見え,戸数182・人口744。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217641