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塚崎荘
【つかざきのしょう】


旧国名:肥前

(中世)鎌倉期~戦国期に見える荘園名。杵島(きしま)郡のうち。武雄(たけお)市武雄町・朝日町・若木町・武内町・東川登町・西川登町地区から杵島郡山内(やまうち)町・北方(きたがた)町・大町町にかけての武雄川・六角(ろつかく)川水系に広がる荘域。塚崎荘は「墓崎荘」とも,「柄崎」とも記された。長島荘の惣地頭橘薩摩氏の衰退にともない「墓崎村」の小地頭後藤氏が台頭し,鎌倉末期に長島荘から分出して成立した。初見は,応長元年12月3日付藤原氏女田地売券に氏女が武雄入道並びに女房へ売却した田地として「つかさきのしよういわたねみやうこつほ六たん」のことが見える(武雄神社文書/佐史集成2)。この田地は,さらに同年12月12日付同氏女寄進状で藤原氏女の娘大江氏女の私領と相博しており(同前),「墓崎庄岩種名小坪陸段」とある。建武元年5月1日付後醍醐天皇綸旨に後藤又次郎光明に対し「肥前国墓崎庄梅山以下惣地頭職・赤保院(杵島郡)内同検断本司職・同国杵島北郷□(福)田村〈号石次〉并松浦西郷(松浦郡)瀬□(々)浦等」の当知行が安堵されている(後藤家文書/佐史集成6)。また建徳元年9月29日付菊池武平田地寄進状には武平が武雄神社に「塚崎庄武雄大明神田地弐町」を寄進のことが見える(武雄神社文書/佐史集成2)。南北朝内乱期,塚崎荘の後藤氏は菊池氏の影響下に南朝方として活躍しており,幕府は応安3年,渋川義行の後任に今川了俊(貞世)を九州探題に任命し,翌年末に彼は九州に下向するが,肥前国は弟頼泰が守護に任命され,南朝勢力の一掃に活躍した。応安5年2月日付竜造寺熊竜丸軍忠状(竜造寺文書/佐史集成3)や同年月日斑島地頭尼代軍忠状(有浦家文書/佐史集成19)に「塚崎城」・「塚崎庄牟留井城責」の記事が見え,今川頼泰の証判が据えられている。応安5年3月日橘薩摩公与軍忠状には「同(応安4年)十一月十九日,肥前国上松浦呼子津罷着,同二十四日,馳加塚崎庄西山而,致度々合戦,其後大将軍志保田(塩田カ)仁御越之時,案内者之御共申」と見え,頼泰の行動の経過が知られる(橘中村文書/佐史集成18)。後藤氏はその後,武雄の塚崎城(現武雄市武雄町武雄)を本拠に塚崎荘一帯に国人領主として勢力を伸張する。天正18年3月7日付豊臣秀吉朱印状によれば,後藤家信に1万9,703石9斗の知行高を扶助されているが,その知行の所付けに「一,参千三百七十九石弐斗〈きしま郡長島庄〉,一,九千参百六十四石八斗〈同郡塚崎庄〉,一,参千六百五十九石二斗〈下まつら郡内有田〉,一,参千参百石七斗〈おぎ郡内東郷〉」と見える(武雄市史所収文書)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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