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天山神社
【てんざんじんじゃ】


小城(おぎ)郡小城町大字岩蔵(いわくら)にある神社。旧郷社。祭神は多紀理比売(たぎりひめ)神・狭依比売(さよひめ)神・多紀都比売(たぎつひめ)神。社伝によれば,大宝2年4月1日小城郡高隈里に安芸国宮島厳島神社から清光が飛び来たってこの所に鎮座したという。神の示現の時に7歳の童女が神がかりしたといい,その童女の家は以後命婦と称して祭祀の神巫を勤めたといい,また慶雲2年には厳島神社より神官が訪ね来てこの所に居着き,宮島家と称して神主家を勤めるようになったという。「肥前古跡縁起」によれば,この神は弁財天で唐より乙護法善神を追って日本に飛び来たったとし,この地より筑前志賀島・安芸厳島に渡って数々の奇瑞を示したという。同書には,延暦22年に比叡山西谷の聖命上人が当国に下向,雲海山を開き岩蔵寺浄土院を開創し天山大明神を鎮守としたとある。「三代実録」貞観2年2月8日条には,田島神・荒穂神・予等比売神等当国の諸社とともに神階昇叙にあずかっており,当社は従五位上とされ,また仁和元年2月10日には当国の稲佐雄神・堤雄神とともに昇階され,当社は正五位下とされている。ただし天山神社は小城町晴気(はるけ)と東松浦郡厳木(きゆうらぎ)町広瀬(ひろせ)にもあり,3社ともに天山の下宮にあたりどれが本社であるかは未詳。当社は岩蔵寺との関係で比較的史料が多い。建長元年8月日の「僧貞弁領知所々注進状」(中山法華経寺文書/鎌遺7114)には「石蔵山乙護法堂二季彼岸大般若免三丁」とともに「天山法華転読免二丁〈本領主同進士太郎〉」「天山仁王講田免五反〈本領主実王房〉」「天并(山カ)赤目宮薗一所〈本領主覚性房 伝主院入道名内也〉」「赤目宮入田二丁〈本領主右内左近允〉」等々の社領免田が見え,また正応5年8月16日の河上宮造営用途支配惣田数注文(河上神社文書/佐史集成1)に「天山社六丁八反」とある。南北朝期になると当社座主職は河上社の座主実相院が兼ねていたと思われ,正平16年正月11日の「河上社座主兼天山本司増成譲状」(河上神社文書/佐史集成1)には,増成が周防房増憲に譲与した所領のうちに「天山社供僧分壱口䉼田伍段」とある。さらに正平22年正月11日の「沙弥禅猛田地寄進状」(実相院文書/佐史集成1)には四季大般若新免として晴気保柴本内の8反が天山大明神に寄進されているが,その中で当社は「是当国第三之社稷,小城一郡之鎮守,四所弁才之宝窟,十五童子之緋砌也」とあり,当時郡内第一の神社とされていた。近世には佐賀藩主,多久(たく)・武雄(たけお)・諫早(いさはや)各領主の崇敬を集めたという。境内の二の鳥居は慶長17年鍋島直茂・勝茂・元茂らの寄進によるもので,また一の鳥居は寛文5年小城藩主2代目直能の寄進によるものである。また,古来祇園(ぎおん)川水系の農民による弁財天信仰の拠点としての崇敬も篤い。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217746