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伴部郷
【とものごう】


旧国名:肥前

(古代)平安期に見える郷名。「和名抄」小城(おぎ)郡四郷の1つ。刊本の訓は「止毛」。おそらく大伴部がいたことは間違いないだろう。「宇佐大鏡」に「畠三箇所〈在小城郡伴部郷 一院萱原田村〉〈在四至〉一院福所村〈在四至〉一院江津村〈在四至〉伴部郷 六条五十二丁二丈 埋里十七丁三丈 立石里十六丁八反四丈 江口里十二丁四反二丈 坐伏里五丁六反三丈 七条六十一丁八反 甲楊原里四丁一反四丈 楊原里二丁七反二丈 苽生里一反三丈 目利里五丁九反二丈 埋里廿四丁八反三丈 葦苅里廿一丁八反一丈 古与原里二丁一反」とあり(到津文書/大分県史料24),ここに記す里名のうち三日月(みかつき)町樋口の立石・江口,同町甲柳原,牛津(うしづ)町乙柳(楊原里の遺称),同町乙柳の生立ケ里(うりゆうがり),同町柿樋瀬の練ケ里(ねりがり)(目利里の遺称であろう)・芦刈(あしかり)町が遺称地として残る。しかも三日月町堀江に四条,樋口に五条の地名も残り,条の比定は容易である,また同文書に記す甕調(みかつき)郷の内容から伴部郷の東に甕調郷が接していたことは確かである。また,伴部郷に属する甲楊原里の北2里に久米ケ里があり,大伴氏と関連の深い久米氏の存在が考えられ興味深い。なお,畠三か所のうち福所村は現在の久保田町久保田の福所江,江津村は牛津町勝の江津ケ里に比定される。また同文書に記す「荒田二百六十五町八反 八条卌七町四反 舎人里十七反一丁 蠣久里十一丁 大原里十九丁三反」の里名の遺称地として,芦刈町芦溝の舎人,牛津町柿樋瀬(蠣久の転化であろう)があり,当時の海岸線を推察させる有力な史料となっている。ところで,上記の文書には「秦時広沽券云」として,秦時広売券の引用であり,その本文によれば「小城郡内伴部郷〈七十七丁五反二丈 加地子召定,卅七丁五反二丈 加地子十八石六斗一升副米召定,四十丁副米十八石〉,仲小城西東并伴部郷者本国領也,而自本領主大監兼秦時広之手,与見物以延久五年買得津守常見御領之後,於(為に同じ)半不輸之神領,弁済官物之外,停止他国役,勤仕神事,進斎宮召加地子副米也」という。大監秦時広が開発の私領小城郡東西郷・伴部郷を津守常見に売却し,延久5年,常見の手を得て守佐八幡宮が入手し,不輸および半不輸の地として加地子米36石余を収得するところとなったのである。同文書には異筆で「成帳云,甕調東西郷神領宮に名田卅五丁内不輸田卅五町,半不輸四百丁者」と見える。小城郡三日月町・牛津町・芦刈町,佐賀郡久保田町一帯に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217835