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中町
【なかまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は唐津(からつ)城下の1町。町田川左岸,城下町の中央部に位置し,本町の東側,呉服町の西側にある。唐津築城時の総町十二か町の1町で内町のうち。町人地。文化年間頃の町筋は南北1町25間,古来本軒44,当時人数143(男69・女74),引合五人組53人(町年寄2・組頭2・御八百屋1・御用船問屋2・砂官棟梁1・酒屋3・呉服屋1),糀屋・質屋や,高徳寺・山伏東琳坊がある(松浦拾風土記)。元文年間の唐津酒屋定法帳によれば酒造屋が4軒みえるが,幕末には1軒となる。当町は江戸期から食料品を商う店舗が多く,幕末には唐津藩が当町周辺における魚介類の振売り商いを許可したため,魚問屋もできた。横町筋には魚屋が多い。文化年間頃は御用八百屋で町年寄並の八百屋吉郎次,御用左官の郡治がいた(松浦拾風土記)。幕末期に横浜屋田中家は御用酒屋を勤め,当町の3分の1ほどの地所を持つ富商となる。寛政11年当町ほか9町は,辻番所2か所と毎年10月から3月までの自身番の設置は負担が大きいので辻番所1か所は夜番とし自身番も辻番所で兼ねたいと藩へ願い出ている。当時は町火消し草場支配組に所属(諸事控/唐津市史)。文政7年当町の曳山「青獅子」は2番曳山として辻利吉などが製作。幕末頃唐津名物として有名であった江戸屋煎餅は当町内で製造。真宗東本願寺派釜山海高徳寺は文禄年中豊臣秀吉の命をうけ織田氏譜代の老臣奥村掃部介が朝鮮において開山し,のち当町に移転したもの(唐津拾風土記抄・松浦古事記)。当町中央には「粟島さま」という神社があり,彦山派の御目見山伏高田東琳坊が宮守をしていたが,のち唐津神社へ合祀され廃社となる(唐津拾風土記抄)。しかし「粟島さま祭」は当町で継承される。明治元年の軒数62・人数163(唐津市史)。同3年当町田中嘉兵衛(酒屋),横山彦兵衛(糀・醤油),筒井忠右衛門(豆腐屋),前田弥七(酢屋),前田又兵衛(八百屋),大木卯兵衛(腰物師),辻村五兵衛(油屋)はそれぞれ株仲間筆頭であった(正円寺文書/唐津市史)。藩領最後の町年寄は小宮藤右衛門・田中嘉兵衛(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)。「明治11年戸口帳」では唐津町のうちに「中町」と見え,戸数58・人口235。はじめ大区扱所,のち4小区務所が置かれ,同20年までは唐津町戸長役場が設置され唐津町行政の中心地となる。明治9年横浜屋田中嘉兵衛は内町総代となる。明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属。明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち。明治30年の人口505(唐津市史)。大正2年には産業無尽株式会社があったが戦後姿を消す。昭和13年市営公設市場が新設され,戦時中は市民の生活物資の配給が行われた。同20年戦時家屋疎開が実施されて道路幅が拡大され,同30年代までは朝市がたち市の風物詩となった。戦後当町の横町通は歓楽街となり現在に至る。世帯数・人口は大正14年68・342,昭和35年82・514,同41年78・338。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217943