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中町
【なかまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~昭和44年の町名。江戸期は佐賀城下の1町。寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ。佐賀城の北に位置する。長崎街道が東西に通り,街道に沿って家並みが東西にのびる。北は十間堀川に面し,南は八幡小路,東は米屋町,西は多布施(たふせ)町と接する。「勝茂公譜考補」には「天正十九年蠣久ヨリ佐嘉へ町御引キ移シノ時,六座町・伊勢屋町・中町・白山町ヲ始メニ御引キナサレ,其後段々諸町立ツ」とあり,慶長13年の城下町割り以前から町づくりが行われていた古い町の1つである。家数は,承応3年佐賀城廻之絵図では92,元文5年屋敷帳では84。嘉永7年の当町の竈帳は1冊分が欠如しているため全体の数は不明だが,残存分のみで記すと,総竈数114(明家3),人数555(男285・女270),身分別竈数は手明鑓1・家来6・徒士7・中小姓2・足軽31・職人2・被官19・その他の有姓者9・町人34,とくに多い職種の竈数は日傭取11・大工8。同年の竈数を宗派別にみると,一向宗44・禅宗31・浄土宗24・法華宗13・天台宗1。木材を取り扱う職業の人が多かったためか火災が多く,元禄16年には当町より出火,米屋町まで100余軒が焼失する大火があった(新佐賀市史2)。そのため,町民は火災予防に留意し,天保10年以来町民の代表が八天社(現在の藤津郡塩田町五町田)に参詣して火除けの札を町内に配布する行事が現在に至るまで続けられている(八天社祭御祭典記録)。幕末の佐賀の代表的蘭医でのち藩の医学校好生館の教導方に任じられた山村(金武)良哲は当町で開業し,その屋敷の一部も現存している。「旧高旧領」では高32石余とある。「明治7年取調帳」では枝村に米屋町・多布施(たふせ)町がある。「明治11年戸口帳」によれば,戸数219・人口865。明治22年佐賀市に所属。昭和44年佐賀市八幡小路・白山1~2丁目となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217944