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蓮池町
【はすのいけまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~昭和36年の町名。江戸期は佐賀城下の1町。寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ。佐賀城の東北に位置する。長崎街道が東西に通り,街道に沿って家並みが東西にのびる。東は柳町,西は晒橋を境に呉服町に接し,北は紺屋川上流を隔てて上芦(かみよし)町,北は裏十間川を隔てて馬責(うません)馬場小路に対する。柳町との間には木戸が設けられていた。家数は,承応3年佐賀城廻之絵図では26,元文5年屋敷帳では34。嘉永7年蓮池町竈帳の総竈数48(明家3),人数237(男106・女129),身分別竈数は侍2・手明鑓1・家来3・徒士5・中小姓1・足軽15・被官2・その他の有姓者4・町人12,とくに多い職種の竈数はそろばん屋2・日傭取1。これによれば,身分別には足軽がもっとも多く,町人・徒士がこれに次ぐ。職業別には唐物座札4が最も多い。ただし,仕立屋・太物屋・荒物屋・丸散(がんさん)屋などを兼業している。唐物座札とは輸入品の呉服類や雑貨の専売権を与えられている商人であろう。寛政元年の幕府巡見使の下向や文化9年の伊能忠敬の佐賀測量に際して,当町に本陣が設けられているのも,富裕な商人が居を構えていたためと思われる。嘉永7年の竈帳に北通りの東から2軒目に呉服太物商古賀善兵衛の名があるが,彼もその1人である。寛政初年頃にも菜種屋三左衛門の名が裕福な者として特記され,また,酒屋が3軒あり,酒屋運上造米10石につき20匁を納めている(寛政元年巡見録)。嘉永7年の竈数を宗派別にみると,一向宗14・禅宗13・浄土宗12・法華宗4・天台宗1・真言宗1である。神社は南通りの東端近くに祇園社があり,敷地3畝は御免地になっている。伊能忠敬も「祇園小堂」の存在を記している。この社は現存し,境内には小さな社殿と鳥居とクスの大木がある。祇園社の境内には真言宗成就院があったが,現在は廃寺になっている。「明治7年取調帳」では柳町の枝町となっている。明治15年の戸数52・人口268,うち男138・女130(共武政表)。明治22年佐賀市に所属。明治18年祇園社の向側に2代古賀善兵衛が資本金5万円で古賀銀行を創立,同25年第七十二国立銀行を譲り受け経営を拡張する一方,炭坑経営により日露戦争のとき巨利を博した。大正8年には資本金150万円になり,九州五大銀行の1つに数えられる佐賀県一の銀行に成長した。しかし,第1次大戦後の経済不況と古賀一族所有の商事会社や石炭会社の経営が悪化し,大正15年5月休業に至った。現在,古賀銀行の建物は県労働会館として使用されており,その東隣の広大な古賀邸は料亭に変身している。なお,昭和期に入ると,県道水ケ江佐賀停車場線が通じたため当町は東西に分断された。昭和30年蓮池町が佐賀市に合併したため,同36年当町は佐賀市千代町と改称。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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