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八天神社
【はってんじんじゃ】


藤津郡塩田(しおた)町大字谷所(たにどころ)にある神社。旧村社。祭神迦具土(かぐつち)命。近世には唐船権現とも称し,また八天狗社とも呼んだが,近世初頭にも八天宮の名が見える。「八天社由緒書案」(八天神社文書/佐史集成17)によれば貞応年中山城国山崎の修験僧良真が,当社本光坊を創建したのに始まるとする。当地は修験の行場でもあり,本光坊はその本坊であった。八天神社文書には弘長2年6月11日の平某禁猟定状以下江戸期に及ぶ古文書38点が所蔵されており,そのうち中世に属するものの多くが山口権現に関するもの。山口権現は現在当社の西方に近接して存在している。おそらく山口社の別当寺として中世に始められた修験の坊が,独自に八天神(八天狗)を祀る社殿を開創して今日の八天神社となったのであろう。同文書には,「鳥坂村田所方鎮守権現神所より四方,公方之狩をとゝむる堺之事」として「大夫阿闍梨御坊中」宛に禁猟堺四至が定め置かれている。本光坊はもと大高寺とも称したとされ(藤津郡村誌),正応4年7月の大高能寺阿闍梨職補任状が残されている。本光坊の名が見えるのは応永3年5月3日の橘正地法師田地寄進状からで,この頃から活発な修験先達の活動を始めたと思われる。永享6年9月9日の御師檀那定状は,本光坊の住職良俊が弟子都々丸に対して「下鳥坂山口一村所先達」を定めたもので,その檀那数は30余名を数える。当社の修験は英彦山系に連なるもので,同文書には「同時之宿坊者,彦山之門坊也」とある。他に黒髪・多良岳の名も見え,当地がこの地域一帯の修験の根拠地となっていたことがわかる。この頃山口社は「山口十二所権現」とも呼ばれていた(平親家土地寄進状,文明10年9月20日)。八天社の名が現われるのは近世初頭からで,慶長9年8月12日の諫早直孝檀家寄付状には「唐泉山八天社」とある。「八天社由緒書案」によれば,戦国期に有馬氏がこの地に鳥付城を築いたために度々戦乱に巻き込まれて「当坊一山及回禄」以後一時衰微した。住持をめぐる争いなども起きたが,本光坊の他朝日坊・本勝坊・円林坊・行学坊の五坊が成立し,元和4年に社壇を再興。再度火災に遭い元和9年に再建されて,以後鍋島氏の保護を受けて江戸にも分祀された。近世には火伏せの神としての信仰が篤く,藩でも当社の「火札配」に保護を加えている(板部舎人触状写,年未詳)。肥前国内では村々で代参講を組織して,その札をもらいうける八天講が盛んとなっていた。境内の石造眼鏡橋(県重文)は嘉永7年の造立。八天神社上宮にあたる唐泉山頂はシイの古木が原生林として残り,国天然記念物に指定されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7218238