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浜中村
【はまじゅうむら】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。小城(おぎ)郡のうち。浜中ケ里村ともいう。牛津(うしづ)川と福所江(堺川)に挟まれた平坦地に位置する。西側を西芦刈水道が縦断。東半が佐賀本藩領で,西半は小城藩領。平吉郷に属す。「大小配分石高帳」では鍋島弾馬が地米高736石余を知行。村高は「正保国絵図」「天明村々目録」では380石余,「天保郷帳」では677石余。「旧高旧領」には見えない。集落は南北朝期に発生したと考えられる(芦刈町史)。西北側の立野,南方の三条,東南方の高道は川久保鍋島氏の支配地で,当村の中に併せて考えられていた。文化8年の小城郡平吉郷図では南北に広がる環濠集落を形成。北端に臨済宗東福寺派報恩寺,北部に天満神社が3社,東部に宗蓮寺,南部に沖神社が見える。また西側の田圃の中に川神大明神,東南部に八竜社が2社記されている。沖神社の祭神は大綿津見神・大鷦鷯尊・淀姫命・菅原道真の4柱。勧請年月は不詳だが,祠官裁許状によると天正年間以前となっている。社殿造営には小城藩主が社領1反歩・御供米年3斗3升を寄進。東の田圃の中に陣の森と称する小丘があるが,同所は千葉氏の家臣で芦刈(あしかり)を根拠地とした最初の豪族徳島氏の館跡と伝えられ,丘上には六地蔵2基(年代不詳)や石造物が並ぶ。またこの東方には徳島堀がある。文化11年の小城郡里郷之図では54町余,小城藩領510石余・佐賀本藩領730石余と記され,壱之井樋筋掛の村とある。天保6年の小城郡里四郷絵図では戸数41・人口198。「明治7年取調帳」では1村として見え,枝村に八枝村・虎坊(とらぼう)村をもつ一方,芦刈村の枝村としても分記されている。「郷村区別帳」でも芦刈・八枝両村の枝村として分記されている。「明治11年戸口帳」では浜枝川村のうちに「芦刈浜中」「八枝浜中」と見え,戸数・人口は芦刈浜中36戸・156人,八枝浜中44戸・207人。「小城郡村誌」によれば,明治13年に川越村・八枝村・虎坊村と合併して浜枝川村の一部となったという。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7218269