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平野町
【ひらのまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は唐津(からつ)城下の1町。町田川左岸,城下町の中央部に位置する。唐津十七か町の1町で内町のうち。はじめ下級武士の居住する武家地であったが,のち職人などが移住し町人地となる。築城時の十二か町に含まれないので,惣行事・月番は置かれていない。文化年間頃の町筋は東西1町26間,古来本軒41,当時人数131(男74・女57),引合五人組48人(町年寄2・組頭2・紺屋1・医師1・瓦師2),伝明寺,山伏千量院があり,古来馬札1で当時はない(松浦拾風土記)。伝明寺は真宗東本願寺派名護屋六坊の1つで,木浦山千量院は登山派の御目見山伏(唐津拾風土記抄)。伝明寺は明治初期に廃寺となり新町の安浄寺が管理したが,同20年頃には撤去された。白玉稲荷があり千量院が宮守をしていたが,のち唐津神社に合祀された。明治初期の絵図には木村姓の家が8軒ほど見え,いずれも大工職。寛政11年当町ほか9町は,辻番所2か所と10月から3月までの自身番の設置は負担が大きいので,辻番所1か所は夜番とし自身番も辻番所で兼ねたいと藩に願い出ている。当時は町火消し草場支配組に所属(諸事控/唐津市史)。幕末伊勢講の御師高向二頭太夫は当町に出張所を設置した。安政年間頃の町年寄は伊藤恒左衛門・渡辺重右衛門,最後の町年寄は伊藤常左衛門・木村市兵衛(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)。明治元年の軒数59・人数167(唐津市史)。同2年当町の山車謙信の兜が11番曵山として富野武蔵により製作された。同3年の藩制改革で唐津城下の陌正に任命された細田翁助は当町に役場を設置した。「明治11年戸口帳」では唐津町のうちに「平野町」と見え,戸数43・人口161。同9年当町の木村幸助が西端の城壁を抜け西寺町・唐津村字熊原へ至る新道を造成した。明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属。明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち。明治30年の人口331(唐津市史)。大正4年の戸数44・人口323。世帯数・人口は,大正14年55・302,昭和5年50・285,同35年82・340,同41年79・271。現在は江戸期の道幅のまま明治期の建物が多く残り,小売店が点在している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7218444