100辞書・辞典一括検索

JLogos

9

平吉郷
【ひらよしのごう】


旧国名:肥前

(中世)戦国期に見える郷名。小城(おぎ)郡のうち。牛津(うしづ)町と芦刈(あしかり)町・三日月(みかつき)町の一部を含めた有明沿岸の低地に位置し,「慶長国絵図」には,佐賀平野の南部,牛津川と嘉瀬川に挟まれた干潟干拓地として有明海沿岸の堆積中州の景観が描かれ,「平吉郷」の名が見えている。天正11年7月10日付成富信種譲状によれば,信種が庶子に所領配分したなかに「肥前国小城郡平吉郷之内遠ノ江分七町」とある(成富家譜/大日料11‐4)。遠ノ江は小城郡条里の4条遠ノ江ケ里で,現三日月町地内の長崎街道と嘉瀬川との交差地点手前の街村。また,慶長11年7月小城天山御祭礼事書に「北郷・南郷・平吉郷・納所,此穀数凡壱万八百七拾石」とあり(天山宮由緒),文永3年6月日付肥前国検注帳案の戦国期の異筆裏書は「三か(日)のかう(郷),何事もはしめて,平吉ニうつる」とある(竜造寺文書/佐史集成3)。「御領中郡村附」には半吉郷として,牛津本町・同新町・練ケ里・柿桶瀬ケ里・江津村・女田村・定原村・八枝ケ里村・浜中ケ里村・川越村・虎坊村・舎八ケ里村・西道免村・東道免村・永田搦村・下古賀村・中溝ケ里村・戸崎村・芦刈村などの集落名が見え(芦刈町史),条里制耕地に接続した干拓の漸移地帯であった。特に沿岸に近い低地は,戦国期以降,成富氏らの手によって大規模な干潟荒野の干拓が進行したと予測される。なお,「慶長国絵図」では,牛津川河口に発達した河港の町「牛津町」も当郷の内に含まれている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7218457