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本行寺小路
【ほんぎょうじこうじ】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の通称地名。佐賀城下の武家屋敷地。佐賀城の北西に位置する。町筋は,本行寺の境内と本行寺門前から南に走り道祖元(さやのもと)町に達する。東は小川を隔てて東正丹小路に接する。弘化2年の総着到によると,居住する武士は7名で,その総石高は373石,平均石高は53石余となり,中下級武士が多かったことがわかる。元文5年の屋敷帳によると,平士の岩村令吾のほかに手明鑓3人が住んでいる。法華宗常住院本行寺は享禄4年に没した竜造寺胤家の菩提寺。常住院の山号は胤家の法号。寺内の敷地1町2反19歩は免地で,小城(おぎ)郡馬見ケ里(まみがり)と佐嘉郡大久保村に計10町8反余の寺領を有していた。本堂の毘沙門天像は室町中期の寄木造の素朴な彫刻。境内の墓地には成富兵庫茂安や江藤新平の墓がある。成富は江戸初期の人で鍋島直茂・勝茂父子に仕え,千栗(ちりく)土居や石井樋の構築など治水灌漑事業を指導した。江藤は明治新政府の司法卿・参議などの要職についたが,征韓論が政府に入れられなかったので下野し,明治7年郷里の不平士族に推されて佐賀の乱を起こし敗死した。なお,長隆寺・妙珖寺・光静院などの本行寺末寺が本行寺の周囲にあったが,現在その遺跡は残っていない。長隆寺の開基は顕理院で,元禄年間の建立。妙珖寺・光静院の建立年は不明。「明治7年取調帳」では西田代村の枝町として「本行寺名」と見える。西田代村は明治14年に西田代町となるが,当地は明治前期に西田代町に含まれるようになった。現在は国道207号によって南と北に分断され,国道以北は佐賀市西田代1丁目の一部,以南は西田代2丁目の一部となっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7218628