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本町
【ほんまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は唐津(からつ)城下の1町。町田川左岸,城下町の中央部に位置し,東は木綿(きわた)町,西は中町と接する。唐津築城時の総町十二か町の1町で内町のうち。町人地。惣行事役の順番は当町が筆頭。文化年間頃の町筋は南北1町25間,古来本軒40,当時人数205(男106・女99),引合五人組72人(日田御用掛り苗字帯刀御免1・町年寄2・組頭2・御使者屋守1・御米問屋1・木挽棟梁1・桶師棟梁兼屋根棟梁1・質屋1・当時馬持1),当時の御使者屋守は五郎兵衛,木挽棟梁は茂兵太(松浦拾風土記)。江戸期の当町は商人と職人で半々に構成されていた。富商が多く,日田御用達は鶴田屋谷崎家,御米問屋は中川家,木挽棟梁は楠田家,桶師棟梁は大西家,屋根師棟梁は吉岡家,御用仕立屋は副田家が勤めた。楠田家はほかに町年寄を勤め,出雲大社の社人の宿舎ともなり出雲宿とも呼ばれた。藩主土井氏の時代当町に公用役人などが宿泊する御使者屋が設置されたが,水野氏の時代には町並みの反対に改築された。小笠原氏時代には町会所兼郷会所となり町役人・村役人の事務連絡所として機能し,町人の宗門改めも同所で実施された。明治期には戸長役場となる。寛政11年当町ほか9町は,辻番所2か所と毎年10月から3月までの自身番の設置は負担が大きいので,辻番所1か所は夜番とし自身番も辻番所で兼ねたいと藩へ願い出ている。当時は町火消し草場支配組に所属(諸事控/唐津市史)。弘化3年当町の曳山「金獅子」は8番曳山として製作された。「肥前国物産図考」には当町の線香屋が描かれている。稲荷社があったが,明治末年に唐津神社へ合祀された。明治元年の軒数80・人数252(唐津市史)。藩領最後の町年寄は楠田沢右衛門・谷崎庄左衛門(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)。「明治11年戸口帳」では唐津町のうちに「本町」と見え,戸数75・人口255。明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属。明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち。明治30年の人口359(唐津市史)。明治期には富商が姿を消し,歓楽街となった西側の中町と東側の木綿町を結ぶ町並みとして現在に至る。大正4年の戸数67・人口361。世帯数・人口は,大正14年62・334,昭和5年62・296,同35年68・297,同41年76・280。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7218653