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松土居
【まつどい】


地元では「まつでえ」と呼ぶ。小城(おぎ)郡芦刈(あしかり)町ではハゼが植えられたことからハゼ土居,佐賀郡川副(かわそえ)町ではササ土居,同郡東与賀(ひがしよか)町では本土居(ほんでえ),同郡久保田町では大土居,佐賀市西与賀町では一番土居などとも呼んだ。佐賀市街から南方約6km,広々とした佐賀平野に海岸線にほぼ並行に連なる,江戸初期の潮土居の遺構。東は佐賀郡川副町の早津江川(筑後川の分流)畔から,西は小城郡芦刈町永田の六角(ろつかく)川畔に達し,さらに対岸の杵島(きしま)郡福富(ふくどみ)町住ノ江から五千間土居(松土居・本土居)と呼んで,白石(しろいし)平野を南西に延びて有明町戸ケ里に達する。延長約30km。これは藩政期,有明海沿岸の干拓地域を海潮の浸入から守る最大の堤防であった。松土居の築造年代は,「慶長国絵図」や「元禄国絵図」に記載されている南限集落の立地,干拓地の造成,「疏導要書」にみる白石平野の松土居(五千間土居)の構築記事などから寛永初頭と考えられる(県干拓史・佐賀市史)。松土居の名は,堤防強化のためにマツを植えたのにちなむ。潮土居とは第一線の潮受堤防のことである。その前面には潟土居(高さ1.5m位で,その内側には海水の出入りもある)があり,それは潟土居内の遊泥の沈積を助長し,また波圧を減殺する機能を果たした。しかし,このような防潮態勢にもかかわらず,藩政期にはしばしば台風による高潮の被害をこうむった。「疏導要書」の大野土井石垣の項に「……正徳ノ頃八月大風大潮ニテ此辺大総ノ切渡出来テ大野村住吉村ハ云ニ不及鹿子村灰塚村十五田原マテモ潮満込ミ農民ノ難儀田畑ノ害トナリシ由此節ノ切渡幅広ク潮漲リテ容易ニ潮ヲ留ルコト不叶数十日ノ間手ヲ空スルコト成シニ東ノ方船津江ノ土井筋ニ取付段々ト西ノ方ヘ築出シ一潮一潮ニ右ノ土井ヲ築出シテ漸々ニ潮口ヲ細メ終ニ本土井ノ北ニ中土井ヲ築テ満干ヲ止メ偖冬潮ノ減スルニ随ヒ本土井ヲ築留タル由一体此所前ノ如ク至テ風当ノ所ニテ此後トテモ切渡出来ヌレハ御城下マデモ災害寡ラサル事ナレハ後来ノ為石垣ヲ築ヘキトテ御領中大小配分ニ至ルマテ割夫ヲ以テ此ヲ築留タル由也然ルニ此石垣去ル子年大風ニテ所々櫛ノ歯ノ如クニ切渡出来テ石垣殊ノ外破崩シケレトモ其以来修覆スルコトモナク崩レタル石ハ土井外ニアリテ潟ニ埋リタリ秋潮ノ時分大風吹潮満テ土井筋ヲ決スルナラハ以前ノ如ク御城下ノ災害トモ成ヘキ事ナレバ其ノ心得ニテ漸々ニ修覆アリタキ事ナリ」とある。この記事により,今の佐賀郡東与賀町大野前面の松土居が度々台風と高潮のために決壊し,その被害が佐賀郡の南部一帯にわたったことがわかる。文中の「正徳ノ頃八月大風大潮云々」とあるのは,正徳元年二百十日頃の台風による高潮で,俗に八朔潮と言われる潮位の最も高い時で,この時期の台風は大きな被害を与える。また,文中「去ル子年大風云々」とあるのは文政11年の台風による高潮と考えられる。松土居は決壊の度ごとに改修補強工事が実施された。また,天明3年佐賀藩に六府方が設置され,その一部局である搦(からみ)方によって大々的に干拓事業が進められ松土居は一層強化された。この松土居を境として,その内側を一般に揚(あげ)と呼んで籠(こもり)の地名が多く,外側はほとんど搦名で,集落,溝渠,耕地などの景観を異にする。この土居の前面に干拓地が拡大されるにつれ,また第一線堤防が近代化されるにつれ,この土居の高潮防塞上の機能はなくなった。そして,第一線潮土居築造用の土取場として解崩され,所によっては高道や平道に利用され,今日わずかにその残象をとどめるに過ぎない。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7218705