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南大草野村
【みなみおおくさのむら】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。藤津郡のうち。杵島(きしま)郡に属す場合もあった。大草野南村ともいう(宝暦郷村帳・天明郷村帳)。塩田(しおた)川中流の右岸に位置し,川沿いの平地と背後の山地からなる。佐賀本藩領。塩田郷に属す。杵島郡武雄(たけお)郷に属す場合もあった(宝暦郷村帳・天明郷村帳)。村高は,「正保国絵図」「天明郷村帳」ではともに327石余,「天保郷帳」では371石余。「慶長国絵図」と「旧高旧領」では大草野村の名が見え,近世初期と明治初期には南北の2村に分村していなかった。当村は,「宝暦郷村帳」では1村として見えるが,「天明郷村帳」では北大草野村の小村として見える。給人・地米高は,「玄梁院様配分帳」では鍋島十左衛門236石余,「大小配分石高帳」では鍋島上総236石余。山裾を長崎街道塩田通が走っていた。塩田へも嬉野(うれしの)へも塩田川を渡河しなければ行けず,その不便さから享保年間頃より武雄を通る彼杵(そのき)通が長崎街道の主道となったため,塩田通の通行量が減った。長崎街道の塩田川渡河地点は「川広十一間,深凡二,三尺,小石川陸渡,但山川故俄水出三日程渡不成事有」(御国中所々道法帳)と記され,出水による難所であった。集落は街道に沿って点在していた。用水は塩田川の井堰より取水。米麦のほか藁加工品・和紙が特産品。江戸後期には農家の副業として塩田川の豊富な水を利用して,移入した天草陶石を水車で陶土に加工し,有田(ありた)方面に送った。また,慶長年間に朝鮮人陶工が焼いたと伝えられる窯跡がある。鎮守の丹生神社は和銅元年に大和(やまと)国(奈良県)丹生神社の分霊を安置したといわれ,武雄鍋島氏の尊崇が篤かった。境内には僧空海が中国からの帰国の際に安置したと伝わる十六善神がある。また地内には元亀4年の六地蔵があり,「庚申講供養為」との銘がある。「明治7年取調帳」では大草野村の枝村として見える。「明治11年戸口帳」によれば,大草野村のうちに「南大草野村」と見え,戸数122・人口532。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7218796