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目達原村
【めたばるむら】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。神埼(かんざき)郡のうち。目田原(筑紫紀行)・女達原(御国中所々道法帳)とも書く。佐賀平野東部,井柳川(本戦川)流域の小丘陵地に位置する。村名は,「肥前国風土記」や「和名抄」に見える米多(めた)に由来し,古代米多国造が支配した領域で,米多の原が転化したのが目達原と考えられる。目達原古墳群(その大半は昭和17年の飛行場建設のため破壊された)は米多国造一族の墳墓といわれる。村高は,「正保国絵図」「天明村々目録」ではともに48石余,「天保郷帳」では55石余。「旧高旧領」では104石余とある。「大小配分石高帳」では星野惣右衛門が地米高27石余を知行する。また,金乗院の寺領23町余,地米高35石余があり,その内訳は蔵地1石余,目達原宿34石余であった(寺社領石高帳)。長崎街道沿いのため目達原宿の名で呼ばれることもあった(亀川家文書)。北は大曲村,南は苔野村,西は萩原村に接し,東は3町程で郡境の標柱があり,三根(みね)郡桐通村に至る。宝暦12年夏の大旱魃には,石動川から分かれた千間水道分水をめぐって石動村・大曲村・横田村の3村との間に,水論が起こった。この一件は,明和2年金乗院住職寛弁の功績により,水道を疏鑿し,欠漏を修築することで落着した(三田川町史)。金乗院寺領の被官で酒屋を営み茶屋本陣であった亀川乙左衛門一家の安永10年伊勢神宮参詣の旅行許可証(亀川家文書)や,慶応3年村民の久留米高良大社参詣に対して目達原宿庄屋与左衛門が許可を与えた往来手形(実松家文書)が残る。明治2年鍋島藩家老鍋島清茂・鍋島平五郎・鍋島監物らによって士族子弟のための郷学校が,地内大牟田に設立され,老儒松永松蔭を校主とし,鍋島平五郎の編成によるフランス式の軍事訓練が行われ,神埼軍団と称された(三田川町史)。同6年郷学校跡地に老儒相良秋谷・満岡蓼川による寺子屋方式の学習塾が設立され,同8年共立日新小学校と改め,同9年の生徒数は男132・女42であった(神埼郡村誌)。鎮守は伊都伎姫命を祭神とする弁天社(厳島神社)と素戔嗚尊を祭神とする祇園社(八坂神社)。寺院に天台宗宝雨山松林寺金乗院と天台宗成就坊(現在廃寺)がある。金乗院は天正年間に僧玄順が開基したといわれ,本尊は不動明王。佐賀本藩主鍋島氏の祈願寺とされ,通行手形の発行など代官所的任務を行った。院内には寛永9年鍋島勝茂の武運長久を祈って寄進された大乗妙典一万部塔を初め,木造金剛力士像や「金乗教院記」がある。なお当村には,文禄元年佐賀本藩士蒲原右膳に父を無礼打ちされた佐賀郡久保田村百姓吉之助(のち100石取りの武士となり石井主馬と名乗る)が仇討ちを行ったという目達原仇討が言い伝えられている(佐賀夜話)。「明治7年取調帳」では吉田村の枝村として目達原宿とあり,「郷村区別帳」では同じく吉田村の枝村として目達原村と目達原宿が記されている。「明治11年戸口帳」によれば,吉田村のうちに「目達原村」と見え,戸数106・人口459。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7218907