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柳町
【やなぎまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は佐賀城下の1町。寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ。佐賀城の北東部に位置する。長崎街道が東西に通り,家並みは街道沿いに東西にのびる。西は蓮池(はすのいけ)町,東は牛島町に接し,北は紺屋川の上流を隔てて上芦(かみよし)町に対し,南は裏十間川を隔てて馬責(うません)馬場小屋に対する。町の長さは113間9尺,東の角と西の蓮池町との境に2か所の木戸が設けられていた(寛政元年巡見録)。承応3年佐賀城廻之絵図には町名が見えず,町の成立は承応年間以降のことと思われる。元文5年の屋敷数47(屋敷帳)。嘉永7年柳町竈帳の総竈数49,人数222(男111・女111),身分別竈数は家来3・徒士1・中小姓1・足軽17・被官4・その他の有姓者4・僧2・町人17,身分別では足軽・町人がもっとも多く,被官・その他の有姓者がこれに次ぐ。職業別では古道具屋3がもっとも多く,ほかに仕立屋・桶屋・提灯屋などの職人も多い。石炭を売っている太物屋もいる。宗派別竈数は一向宗14・禅宗13・浄土宗12・法華宗4・天台宗1・真言宗1。寺院は,北側のならびで西詰に近い所に一向宗専福寺があり,正保年間の創建と伝えられ,開基は祐学(寺社差出)。境内の墓地には幕末の蘭医島本良順(竜嘯)の墓がある。彼は長崎に赴いてオランダ医学を修め,蓮池町で蘭学塾を開き,のち藩医学寮の寮監に任じられた。その門下には伊東玄朴,山村(金武)良哲,大庭雪斎などの著名な蘭医が輩出した。慶長年間の佐賀城下図には柳町の東端,紺屋川との間に東西47間,南北43間の広さの南蛮寺が描かれている。これはドミニコ会神父アロンソ・デ・メーナが藩主鍋島勝茂の援助で慶長13年に建てたものである。これは5年後に破壊されたようで,承応3年以後の城下図には見えない(新佐賀市史2)。ほかに南側のならびで東から11軒目のところに大財(おおたから)村清心院末寺の真言宗常喜院があったが,現在は全くその跡をとどめていない(寺社差出・寺院帳)。「旧高旧領」では高28石余とある。「明治7年取調帳」では枝町に蓮池町がある。「明治11年戸口帳」によれば,戸数157・人口644。明治15年7月,専福寺の東隣に佐賀郡内の米穀商を株主とし,旧佐賀本藩士柿久栄次を頭取とする三省社(のちの三省銀行)ができた。当初は円満な業務を続けていたが,のち米穀投機師の金融機関と化し,貸付資金の大部分が回収不能に陥り,明治26年に倒産した。明治17年には,当町の東端,思案橋の曲り角に佐賀郡27区の戸長役場が設置されている(新佐賀市史3)。同22年佐賀市に所属。昭和43年佐賀市千代町の一部を合併。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7218977