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矢俣保
【やまたのほ】


旧国名:肥前

(中世)鎌倉期~戦国期に見える保名。三根郡のうち。筑後川の南岸,近世の矢俣郷諸村を中心とする地に比定される。正応5年8月16日付河上宮造営用途支配惣田数注文に「矢俣保三百三十町」と見える(河上神社文書/佐史集成1)。また元徳2年3月8日付沙弥ちやうせん田地譲状に「ひせんのくにやまたのほうまつよし名うち,たなかのまへたいちやう(田壱町)」と見え,板部六郎に井料免4丈を添えて売却している(光浄寺文書/佐史集成5)。板部氏については南北朝期の観応2年6月20日付足利直冬下文で板部松愛丸に対し,「矢俣保内田屋敷」および「中津隈庄田地」地頭等を安堵している(安国寺文書/大友史料17)。また足利直冬は貞和6年10月日板部成基安堵申状に外題安堵の証判を据えているが(光浄寺文書/佐史集成5),板部成基の所領の1つに「矢俣保内弥吉名」のことが見えている。弥吉名は矢俣保と西島郷にまたがり,板部氏は弥吉名地頭職にあったものか。また同年12月8日付板部成基寺領寄進状には「肥前国矢俣保西島郷内,当寺敷地以下」と見え(同前),西島郷も矢俣保の保域に含まれていたのかも知れない。さきの板部松愛丸の所領は文和2年8月11日付一色道猷地頭職宛行状に「矢俣保内田地五町〈大曲次郎跡〉,同保内田地参町〈松愛丸跡〉」とあり,北朝の九州探題一色道猷によって闕所地とされ,綾部幸依にあてられている(綾部家文書/佐史集成21)。矢俣保には弥吉名のほか,康永2年3月18日尼ほうしん田地等売券(光浄寺文書/佐史集成5)に「ともなかみやう」とか,応永12年5月10日赤星武続安堵状(八幡神社古文書/大日料7‐7)に「矢俣保内蓮町二町六反事」や寛正2年6月1日渋川教直書下(光浄寺文書/佐史集成5)に「矢俣保之内,元犬丸名田東嶋町三段三丈」などとあり,室町期以降断片的ながら名田が崩れ,町の地字が成立し始めている様子が知られる。戦国期に入ると天文7年12月13日付竜造寺家門書状の光浄寺領坪付に「矢俣保五十町分」とある(同前)。また佐賀に侵略した大友宗麟は永禄13年11月8日横岳弥十郎の戦功を賞し「一所〈三根郡之内〉三百町 矢俣,一所〈同郡内居屋敷〉弐百町 西郷」と500町の地を宛行っている(横岳文書/大友史料23)。ここにみえる地名は矢俣郷・西島郷を意味すると思われ,矢俣保の保名が消滅して郷名化したものであろう。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7219027