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吉田皿山
【よしださらやま】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。藤津郡のうち。吉田皿山村・吉田山・皿屋ともいう。塩田(しおた)川の支流吉田川左岸の山麓に位置する。蓮池(はすのいけ)藩領。吉田郷に属す。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」とも1村として見える。嘉永5年の吉田郷図によれば,吉田川の西方,吉田村とは山を挟んで西隣に位置する。東西は山に囲まれる。平地には東西・南北に数本ずつ道が通じ,その道の両側に100数十戸ほどの家並みが集中している。この平地の東寄りに形成された集落域を,南西から流れる小川が数条に分かれて貫流している。集落の周囲に畑地,その外縁に田地がある。窯場は東と南東の山に3か所,また西の山裾に医福寺,さらに西の山中に金毘羅が見える。皿山の歴史は,天正5年吉田陶石を発見,蓮池藩初代藩主鍋島直澄が有田より陶工を招いて開窯したことに始まるという。2登窯を築いて16名に永代許可が与えられ,藩の重要皿山となって代官所が置かれた。しかし,元禄年間頃には衰退をはじめ,文化年間頃までは磁器の改良,大坂表との直接取引で山を維持。文政~天保期に大坂の不景気で価格が下落して経営困難となり,藩公金の借用,塩田商人から京都問屋への乗換え,経費の安い大村港への出荷許可の願など再興への努力がなされた。明和3年の皿山運上銀目安銀は4貫108匁余(納富家文書)。文政12年の釜焼18人(西目村々御巡見中日記)。天保12年の職人100人余,登窯数3(蓮池藩請役所日記)。当地の陶石は鳴戸石と呼ばれ,近隣の皿山に移出,享保年間より天草石を併用(肥前陶磁史考)。有田より招いた陶工副島氏7代の孫茂右衛門は藩の御用焼を命ぜられ,雲月の号を拝領した名工であった(嬉野町史)。「明治7年取調帳」には吉田村の枝村として見える。「明治11年戸口帳」によれば,吉田村のうちに皿山(157戸・708人),皿屋村(戸数25戸・107人)と見える。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7219114