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竜造寺村
【りゅうぞうじむら】


旧国名:肥前

(中世)鎌倉期~戦国期に見える村名。佐賀郡小津東郷の内。現佐賀市の城内一帯に広がったとみられる。佐賀城の城内東南部を旧竜造寺城址という。文治2年9月27日付で藤原季家を竜造寺地頭職に補任した鎌倉幕府政所下文のなかに「肥前国小津東郷竜造寺田畠」と見える(竜造寺文書/佐史集成3)。また正和2年12月18日付藤原某施行状に「竜造寺八郎家一〈実字有禅〉申,祖父持善遺領,肥前国竜造寺村」とあって,竜造寺村は竜造寺氏の本拠であったことが知られる(同前)。南北朝期の観応3年閏2月26日高木太郎施行状に「如今月十一日御奉書者,今河掃部助代通□(種)申,肥前国竜造寺村事,任御下文旨,通□(種)当知行無相違之処,竜造寺又七,同八郎,□(同)又四郎,吉嶋彦六,西岡彦三郎,乙益三郎等,乱入当村,構城郭,致濫妨之」と見え,今川掃部助代通種と竜造寺又七(家政)等が竜造寺村の知行をめぐって争っている。竜造寺氏の先祖季益が鶴岡八幡の分霊を祀った竜造寺八幡を創建した。同社は竜造寺家の守り本尊として崇められ,もと城内の地にあったが,慶長年間,佐賀城増築に際し白山町に移された。竜造寺村は戦国大名竜造寺氏の出自の地であり,文明11年11月19日大宰少弐政資の筑紫満門の所領安堵状に「竜造寺八拾町」と見える(筑紫古文書/大日料8‐11)。この地はまた天文21年11月15日,竜造寺鑑兼が河上神社に対して「肥前国佐賀郡竜造寺八十町之内〈四之坪願祐〉七反」を寄進した寄進状のなかにも見えている(河上神社文書/佐史集成1)。また「竜造寺系図」に竜造寺氏の本貫地として「竜造寺邑」とある(太宰府天満宮史料8)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7219142