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編笠橋
【あみがさばし】


中島川に架かる橋。大井手橋の80m下流にある。長崎市内の八幡町と今博多町を結び,市道が通る。橋長19.0m,幅員4.4m。径間(アーチのさしわたし)15.0mに対し拱矢(アーチの高さ)は3.55mしかなく,高さに対し径間が4.2倍にもなる,長崎の石橋群では最も偏平な太鼓型アーチ石橋。昔は石橋群の通し番号で第4橋と呼んだが,明治15年に固有の名称を付した。長崎は貿易で栄えた港町なので昔から遊郭が多く,編笠橋付近の遊郭へ行く男たちは,橋を渡るとき遠くからもわかるので困っていたが,ある男が編笠を被ってゆうゆう渡ったので,みんな編笠を被って渡り始めたためこの名前が付いたという。創設者岸村夫妻は貿易で財を蓄えていたが,中国人ばかりが石橋を架けるのに居たたまれず,私財を投じて元禄12年に完成させた。完成は西山川との合流点に架かる大井手橋より後になるが,ここが最後まで敬遠されたのは,合流点に近いため洪水時は危ないとみられたからであろう。隣の大井手橋を同郷の岡市郎右衛門が架け始めたので,岸村氏も負けまいと,大井手橋に8か月遅れて,完成した。隣の大井手橋がわずか23年くらいで流れたのに,この橋は96年も保ち寛政7年の大洪水で流れた。この時は石橋が10橋も流れたので順番を待ち,7年後に再建を始め享和2年に完成。この時の親柱に「享和三年壬戌八月有官命造之」とあり,石工吉次郎,清兵衛,弥三太,八十八の名が彫ってあったが,壬戌の年は享和2年に当たるので,享和3年と彫ったのは間違い。2度目の石橋は180年もの間流れなかったが,昭和57年7月の大洪水で流失した(長崎名勝図絵・長崎古今集覧・実録大成など)。その後仮橋を架けたが,現在では階段で登る高い石橋が再建された。流れた編笠橋の特徴は,アーチ石の厚さが石橋群中最も薄く,わずか47cmしかなかったことである。径間が5mしかない中川橋の42cmは別として,径間15mのアーチが47cmでは薄すぎる。規定より18cmも薄いのに車が頻繁に通っていたから,石橋は予想以上に強い(石橋物語)。中島川石橋群(10橋)の1つとして昭和46年10月21日に市文化財に指定された。同61年10月1日指定解除となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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