鮎河
【あゆかわ】

旧国名:肥前
(中世)鎌倉期から見える地名。肥前国松浦郡のうち。文保2年9月17日の青方高継譲状案で,青方高継は養子法師丸に青方の内の地頭職を譲っている(青方文書/史料纂集)。その境は「みなミハかきるあゆかわ(鮎河)のさきのひたをたて……たいのうら(鯛ノ浦)さかいをかきる,きたハかきる魚目之大道をかきて,うらにふミをとしてゑわけをかきる,にしハかきるうミ」などと見える。さらに,譲状では「あゆかわに候ハんあみ一てう」を惣領の領内で自由に立てるのを許している。法師丸に譲られた地頭職の場所は譲状には記していないが,元亨2年7月10日の青方高継高直連署沽却状案では,「五たうないにしうらめあをかたのうちのあゆかわのうらのちとうしき」(五島内西浦目青方内鮎河浦地頭職)を銭50貫文で堺深に売り渡しており,この四至堺が文保2年の譲状のそれと一致している(同前)。従って青方高継が養子法師丸に譲ったのは鮎河浦の地頭職であった。しかし,青方高継が一旦養子法師丸に譲与したものが,その後,高継と高直の名で何故売られたのであろうか。事情は複雑なようであるが,建武元年8月日の青方高直目安状案に「童法師丸亦当村内鮎河以下依令知行,元亨四年十一月五日,祖父堺兵衛四郎深令拝領鎮西下知状,令相伝于童法師丸了」とあり(同前),法師丸は堺深の孫と思われ,青方高継から法師丸への鮎河浦地頭職譲与は堺深の売得と密接不可分のものであったようである。堺深は元亨4年11月5日に鮎河浦の地頭職を鎮西探題によって安堵されたと考えられるが,「青方文書」には,これに先立って,青方高継に出された召文(召喚状)が残っており,「沽却地肥前国五島西浦目青方内鮎河浦地頭職」と見える(同前)。のち,堺深の孫法師丸の子孫は鮎河氏を称したようであるが,応永2年12月18日の穏阿等連署押書状案および同日の鮎河道円・同昵連署沽却状案によれば,堺深が売得した青方内での立網権を青方氏と鮎河氏と所務の煩が生ずるとして,48貫文で鮎河の一族が青方氏に売却している(同前)。鮎河は現在の上五島町相河郷に比定されるが,その範囲は現在の大迫堺に近いと考えられる。なお,鮎河がいつ相川に変化したのかは,難しい問題であるが,文安2年11月19日の日向守佐等連署押書状案では「〈あゆかハ〉延」とあり,鮎河は「あゆかわ」と読まれているが,寛正5年3月8日の五島住人等連署起請文では「あいかわ(花押)」とあるので,室町後期には,鮎河を「あいかわ」と読むようになり,やがて「相川」と記すようになったとみられる(以上,同前)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7219298 |





