100辞書・辞典一括検索

JLogos

19

有田街道
【ありたかいどう】


江戸期の街道名。早岐(現佐世保市早岐町)から有田(現佐賀県有田市)方面に至る街道で平戸往還から分岐する。現在の国鉄佐世保線と国道35号にあたる街道であった。早岐は現在国鉄が長崎市方面に向かう大村線と佐賀県方面に向かう佐世保線に分岐する所であるが,江戸期も2方面に分かれる追分集落または宿場町であった。本陣・脇本陣・旅籠屋・馬立場・問屋場・札場があった。有田街道は折尾瀬川(小森川)沿いに,国道35号とほぼ同じである。宿場町の中心である早岐立町大念寺付近で,大村方面に行く平戸往還と分かれ,小路(しゆうじ)を経て早岐庄屋前に至る。さらに二本松の峠を越える。二本松は当街道の並木松からきた地名である。当街道は現在も旧道とか古道とか呼ばれている。峠に茶屋があり,この付近は江戸期の刑場で,現在も地蔵尊の石仏がある。また,山手には浄漸寺があり,奈良期以来,数々の史話・伝説のある名刹である。同寺よりやや東に進むと薬王寺や井手平城がある。同城は戦国期の平戸松浦氏の出城,薬王寺は戦死者供養のため建立された寺である。さらに今福―新行江―口ノ尾―吉福を経て木原番所跡に出る。佐賀藩・平戸藩の藩境にあった番所で,佐賀県の有田川と長崎県の小森川のほぼ分水界にあたる。番所跡下の国道35号に県境という停留所があり,近くに葭ノ本の窯跡がある。三川内焼で最も古い,昔の登り窯の跡を残している。江戸期の当街道は,平戸藩の参勤交代の通路,三川内焼の平戸城下への直送路,佐賀藩の伊万里津に三川内焼を出す輸送路でもあった。なお当街道には,小森川河口の小森橋付近で平戸往還と分かれ,小森川沿いに北上し,権常寺経由,二本松付近で再び合流する道もあった。伊能忠敬は,文化年間に当街道を測量し,「測量日誌」に「小森川,小森橋渡 二十七間,又伊万里・大村街道 追分」とある。当時県北の河川はほとんど橋がなく,「飛石歩行渡」と書いてあるが,小森橋だけが当時あったわけである。忠敬は三川内では三川内焼工場の見学をし,「三河内皿山へ二十町余,陶器ノ製ヲ一覧 左ニ上宮社 右ニ下宮社 字桑木場 字二本松 昼休弥三郎」と記し,平戸藩は測量の謝礼または土産物として,三川内焼を贈っている。測量時の本陣は早岐町年寄,福田利一郎宅であった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7219323