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伊木力往還
【いきりきおうかん】


江戸期の街道名。伊木力村船津(現西彼杵(にしそのぎ)郡多良見町船津郷)から長与村(現同郡長与町)境の松ノ頭に至る1里3町37間の街道。大村城の波戸から海上1里8町,南は長与町の本川内から長与川の谷を通り,長与村と浦上木場村との境だったくるまき峠を越え,真南に川平から三川を経て幕府領の長崎に入っていた。伊木力の船津から大草駅までの海岸線は埋め立てられて相当変わっている。港の整備が進んでいるが,現在の沖から2番目の波止が江戸期の船着場で,ここから100m余のところに庄屋宅があった。ほかに問屋場・制札場・水主屋敷・漁家がある。山際の道を東進すると熊野神社の台地がある。この東側の低地には新しい伊木力小学校があり,この境界線の低地から昭和59年縄文時代の丸木舟が発掘された。同神社付近に毘沙門越の分岐点がある。毘沙門越道は北隣佐瀬村との境界となり,琴ノ尾岳の中腹を抜け扇塚峠を経て長与に通じる道である。田中と中通の間に伊木力平野を眼下に見下ろす標高70mの高地がある。ここは古城址で城尾(じようのお)という地名を残している。街道はこの高地のふもとを通る。ここから真宗の円満寺門前に向けて上り道となる。この付近の集落が中通で,野川内から東斜面を重尾に向けて上る。野川内の集落,野川内川を渡り,南の谷間を行く道は大山越といい,山川内郷の集落を抜けて長与に通ずる。大山越の分岐点から1.2kmほどの所に幸仏川があり,幅1m余の素朴なアーチ橋がある。これから1km余で重尾川を渡り,東岸斜面に移る。ここから800mほどで松ノ頭の村境に至る。江戸初期までは一般の旅人も利用していたが,大坂夏の陣の残党永井勘兵衛を捕えるため旅人の渡海を禁じた。村人の城下町までの利用は特別に認められ,借船水主1人の時は銀1匁,便船は1人分1分5厘,荷物1荷は1人分と同じであった。この街道は大村藩の軍用道路としての価値が高い。海路は大村城の波戸から最短距離で,風よけとしては申し分がない。長崎警備にあたっていた大村藩は緊急時に駆けつけるのに格好な道である。このため,元禄12年大村純長の時に波戸を築き,フェートン号事件の翌年の文化6年大村純昌が増築した。渡船回数も多く,飛脚も繁多だったので,水主銀は免除され,小頭には特別手当がついた。なお天明元年大村藩主純鎮が野川内郷の中道継右衛門,山川内郷の田中村右衛門,舟津郷の田中只右衛門の3人に苗木を栽培させたと伝えられるものが今日の伊木力ミカンに発展した。この街道はミカン街道でもある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7219376