有喜
【うき】

旧国名:肥前
宇木・浮亀とも書く。島原半島の基部に位置し,南は橘湾に面する。緩傾斜の西部の台地と東部の低い山地,有喜川下流の低地からなる。南部の海岸線は有喜川河口を除いて断崖をなす。地名の由来は,ウキ(泥)で,有喜川流域の泥深い湿地にちなむのであろう。縄文中・後期の有喜貝塚をはじめ縄文・弥生時代の遺跡や石器・土器・骨角器などの散布地,包含層などがあり,古墳や「肥前国風土記」に見える巨石を組み合わせた烽火台遺構もある。中央低地は現在は水田となっているが,中世までは海水が湾入し,急傾斜の台地の末端は海岸線となっていたと思われる。有喜城跡は古城(現有喜小学校)といって標高30m程度の小高い丘で,中央低地に突出している。別名浮亀城とも言い,城が危なくなると底にいる亀が持ち上げて城を守ったという民間伝承がある。築城する頃までは潮の干満によって,城が浮き沈みするように見えたからであろう。関連地名に古城の下の水田に城下,尾根続きの海岸に近い台地には塔の元・館の辻・西屋敷がある。また鶴田から中央低地に亀の首に似た地先が突出しているが,そこをガメン首といい,二の丸の跡といわれている。北部の丘陵の頂部に鶴田城跡がある。宇木城を築いたのは西郷氏といわれている(鎮西要略)。「九州治乱記」によれば,応安6年3月に「今川了俊は宇木城を攻め西郷藤三郎を降参させ,翌年3月にはまた今川了俊は宇木城を攻めたが野武士の抵抗にあい昼夜防戦し,7月にはまた伊佐早に赴き永野城を攻め落とし在家に放火し,船越城に入り重ねて宇木城を攻め日々相戦い高来の陣を返さる」とあり,宇木の西郷氏は北朝軍を悩ましていたようである。この宇木城をめぐる攻防は「深堀文書」中の応安7年の一連の軍忠状で確認され,「九州治乱記」の記述が裏付けられる。たとえば,応安7年8月日の深堀時勝軍忠状には「去七月二十三日,管領(今川了俊)伊佐早御着之時,令御共,同二十五日永野城御向,令地家放火,同二十八日宇木城攻之間,日々致合戦訖」と見える(深堀文書/佐賀県史料集成4)。下って,フロイスはこの地のことを「有喜(ユウキ)という伊佐早の港」「この有喜は,伊佐早城から三里離れたところにある」と1572年(元亀3年)頃の記事の中で記している(フロイス日本史9)。白鬚神社は,神功皇后に従って朝鮮に渡った武内宿禰が,帰途に暴風雨に遭い,有喜の港に漂着,古場に住んで農業・漁業の指導をしてくれたので住民がその恩に報いるために,後に古場に武内宿禰を祭神として建立したものという。寛永年間に船津名に移し,昭和18年現在の神殿を改築した。
【有喜村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【有喜村(近代)】 明治22年~昭和15年の北高来郡の自治体名。
【有喜町(近代)】 昭和47年~現在の諫早市の町名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7219597 |





