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恵古村
【えこむら】


旧国名:対馬

(近世)江戸期~明治9年の村名。対馬国上県(かみあがた)郡のうち。対馬の北部,佐護川中流域に位置する。地名の由来は,江凝の意味といい,江水が凝結して土壌をつくったことにちなむという。また江湖によるとも伝える(津島紀事)。対馬藩領。佐護郷に属す。「寛文検地帳」(県立対馬歴史民俗資料館蔵)では上佐護村に含まれ,「元禄郷帳」「天保郷帳」に村名が見えるが,村高は記載されていない。「旧高旧領」では佐護村に含まれている。「天保郷帳」には枝郷として大江村の名が見える。元禄12年郷村帳(県史藩政編)によれば,物成147石余,戸数54,給人3・公役人24・肝入1・猟師19,寺2・社2,牛44・馬39。また寺院は禅宗安養寺・法正寺がある。佐護郷の中心集落であった。式内社天諸羽神社のほかにも古い神祇が多く,また対馬六観音と称する天道観音の堂があり,室町期の一国一寺とされた安国寺もここにあったという。貞享年間の神社誌には,ひたち殿・権現・荒神・しんでん・天神・女躰神と6座あり,村を回る山々すべてに祭祀がある。川縁の低い丘陵に権現と観音が一緒にあったが,神仏分離で権現は天諸羽神社と古名に復して村社となり,観音堂は白岳山麓の現在地に移転した。権現の神主と観音住持を兼ねた寺山氏は,本姓島井という卜部の裔で,明治4年まで正月3日に亀卜を行ったが,その卜庭となった聖地が権現の森であった。天諸羽は「三代実録」貞観12年3月条に見える対馬固有の神名で,対馬上県卜部が祭った卜神だというが,モロハの名義は不明。観音堂の聖観音座像には,板光背の裏面に暦応4年の銘があり,本尊の立像はおよそ南北朝期の作とみられている。深山との境をなす金倉壇(神座壇)に,「曠古遺愛」と題した享保17年建立の石碑があり,雨森東五郎誠清(芳洲)の撰になる平田類右衛門喬信・陶山庄右衛門存(訥庵)両士の功を称した賛が刻まれている。明治4年厳原(いずはら)県,伊万里県,同5年佐賀県を経て,長崎県に所属。同9年佐護村の一部となる。現在の上県町佐護字東里の一部にあたる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7219739