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大渡野
【おおわたの】


旧国名:肥前

島原半島の基部,本明川上・中流右岸に位置する。多良岳の南西麓の浅い谷を流れる本明川に並行して,西部の直線的でなだらかな稜線状の斜面を持つ台地が南北に長く続く。丘陵の南部の谷に西谷川が南流し風観岳(火ノ見峠)に遮られて東に流れを変えて本明川に注ぐ。風観岳北麓の西谷川に面する地域も当地に含まれる。尾永池で大亀を2匹捕えた大渡野の住民が西郷尚善(文明~天文年間の諫早領主)に献じたところ,尚善は親の命日にあたっていたため大変喜んで,「当家一万歳,半造江の主になって守るべし」といって亀の甲に両親の牌名を彫付けて放生した。後に孫の純尭がこの亀を鉄砲で殺したために西郷氏は亡びたという(西郷記)。また尾永池の大亀は女乞食が腰巻きを洗ったのを怒り,本明川に下って高城の下の山下淵に住みついたが,高城が危なくなった時は下から押しあげて城を守ったので高城のことを亀城ともいうと,土地の人々は語り継いでいる。大渡野の丘陵の南端の丘に西郷尚善が大村との境目城として尾和谷城(別名開城)を築いたが,水が一滴もなかったため,尚善は城の飲料水の確保と水不足のため荒野となっている台地を開拓するために大規模な灌漑工事を行い,標高の高い本明川の赤水の落(おとし)に取水口を設け,尾根伝いに約5kmの用水路を掘り,開集落まで水を引いたので数十町が美田化したという。この水の使用については次のようなきびしい掟があり,現在も守られている。開集落は夕日が用水路に陽をさした時から朝日が用水路に陽をさす時まで水を使用することができ,その時刻以外は絶対使用できず,用水路沿線の他の集落はこの逆である。用水路建設の時の沿線付近の住民の協力がいかに大きいものであったかがうかがえる。尾和谷城主尾和谷軍兵衛は元亀3年大村攻めの時奮戦して戦死したという。風観岳の頂上付近の台地には支石墓群があり(市史跡),古代烽火台の遺構と巨石が残っている。年神社は和銅3年の創立といい,祭神は大年神・御年神・若年神で,尾和谷軍兵衛が社殿を建立したといわれているが,火災によって記録は焼失し不詳。元文11年の再建であることは石文に記されている。境内には開集落周辺にあった五輪塔・宝篋印塔などを集めて埋めたという塚がある。
大渡野村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
大渡野(近代)】 明治22年~昭和45年の大字名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7219952