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鍛冶屋町
【かじやまち】


旧国名:肥前

(近世)江戸期~明治11年の町名。江戸期は平戸城下職人町五町のうちの1町。平戸城の南西,城下町の南端に位置し,町屋は最教寺門前から白銀町通りに交差する南北筋に連なる。町名は,鍛冶師が集住していたことにちなむ。城下の鍛冶師総数は元禄10年41,同16年35,寛政4年26と年々減少したが,このうち寛政年間の当町内には頭料役氏田与四左衛門を始めとする15軒ほどの鍛冶師がおり,ほかに大工・木工・仕立師などが居住していた。鍛冶師の賃金は普請奉行によって定められ,寛政7年の役銀は本役銀9匁であった(諸職人役銀并運上定之事)。鍛冶師にとって重要であった鞴祭は旧11月8日に行われ,第2次大戦後まで実施されていた。延宝9年の冠婚葬祭之御教法では「職人ふいご祭為祝,一類或近所之者出会之儀無用にいたし,家内計ニて軽祝可申事」と倹約が命じられている。藩主松浦清(静山)の代に,砲工の国友藤兵衛は旧来の蘭製気砲に工夫を凝らし,その数十倍の威力をもつ新器を創った。火薬・火縄を用いず,厚さ1寸余の的板を15間にて貫いたという(楽歳堂蔵書)。さらに明治初期には一門の国友卯十郎が米式捕鯨銃を改良・実用化し,平戸銃殺捕鯨の開始を告げるなど,鍛冶技術の伝統は近代化への先駆けをなした。明治11年平戸町に属し,職人町の一部となる。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7220129