佐護
【さご】

旧国名:対馬
対馬の北部,佐護川流域に位置し,同川の河口は佐護湾となる。「津島紀略」には「佐護,在本郷之南,和名鈔所載佐護是也,図書編登壇必究作山谷,海東記作佐吾,境内分為七村,曰深山〈美耶馬〉,曰恵古〈読如字〉,曰仁田内〈仁多乃字知〉,曰井口〈伊久知〉,曰友谷〈土茂耶〉,曰椋梨〈無久奈志〉,古湊〈美奈土〉,深山去府十七里卅一町,湊去府十八里卅町,自深山至恵古三町,至仁田内五町,至井口十六町,至友谷廿四町,至椋梨廿二町,至湊卅五町」とある。上県郡第一の高山御岳より発した佐護川の流域に形成された散村で,7つの集落を抱えているが,椋梨は友谷の枝里で,6村を挙げるのが通例。総称して佐護というが,山手の奥里を深山と称し,河口の集落を湊というのも対照的である。そして,深山・仁田内・恵古を合わせて上佐護または上里と称し,井口・友谷・湊を合わせて下佐護または下里ともいう。上里は川の中流に開けた盆地状の地形で,下里は下流の沖積地。その間は狭い谷となって隔絶された形になっている。「和名抄」に見える古代佐護郷の中心に相違なく,中世には佐護郡,近世にはまた佐護郷となる。地名の由来については,「津島紀事」が「佐護,沙凝之下略也,土沙積聚為壌也」としているが,地形的にみて「さこ」(迫・谷)に由来するものであろう。天神多久頭多麻神社と天諸羽神社という式内社2座と,式外ではあるが神御魂神社があり,上県(かみあがた)郡における祭事の中心として,古来の亀卜を行う儀礼が近世まであった。佐護川の流域には弥生時代の遺跡が多く,なかでも白岳遺跡とクビル遺跡は早く学会に知られた青銅器の出土地で,大陸系の珍しい資料とされている。なお,弥生後期の祭器といわれる巨大な広形銅矛の出土地が5か所も知られており,当地が重要な祭祀の拠点であったことを示唆しているようで,古代上県の中心が佐護にあったとも考えられる。対馬の古い祭祀儀礼として年頭の亀卜が行われたが,その二大中心地が上県の佐護と下県の豆酘(つつ)であった。
【佐護郷(古代)】 平安期に見える郷名。
【佐護(中世)】 南北朝期~戦国期に見える地名。
【佐護村(近世)】 江戸初期の村名。
【佐護村(近代)】 明治9~41年の村名。
【佐護(近代)】 明治41年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7220910 |





