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宿郷②
【しゅくごう】


(近代)年不詳~現在の行政区名。明治22年千綿村,同34年からは千綿を冠称して東彼杵(ひがしそのぎ)町のうち。東宿・西宿の2地区からなる。東宿は中世の千綿浦の中心で,中世の墓石や内園・外園の地名が残っている。江戸期には町別当支配下で住民は町人身分であった。千綿川河口にある釜淵(千綿渓四十八潭の最下流)のほとりにある水神宮の氏子として祭礼は今日まで続き,団結は固い。米以下の食料品,衣料・雑貨などの日用品,肥料などの生産用資材を取扱う店,宿屋など,江戸期以来の店も続いていたが,今はわずかになった。明治期以来甘藷からとった「千綿タンキリ」と称するイモアメは有名であった。オコシの製造も行われ,集落内の40~50軒が手延そうめんをつくるなど,食品工業は盛んであったが,次第に衰退し,そうめんは他県の製品におされ,1軒になってしまった。製茶工場は第2次大戦前からあり,現在も活況を呈している。国道34号が戦時中に付け替えられ,集落の北側を通った。これに伴う集落立地の変動はほとんどなく,集落の外れの国道沿いにドライブインが進出している程度で,宿郷の商業機能は失われた。集落の指導層の見識は高く,第2次大戦直後から農業の条件整備に着手し,昭和20年代,北側の台地に農道網を他に先駆けてつくりあげた。同34年宿~大野原間の砲車道整備,同48年町道宿遠目線と赤木台地の奥深く道路が整備されると,果樹園・茶園が拡大し,赤木パイロットに加入し,同53年に竣工した。昭和48年千綿宿イチゴ生産組合は新農政特別事業として共同育莓施設を建設し今日の隆盛を見るに至った。西宿は昭和45年千綿漁港改良が行われ,同51年度まで南防波堤・北防波堤・物揚場17m・船揚場22m・臨海道路延長164mが完成した。赤木台地に畠地があり半農半漁の集落である。明治35年集落内に千綿宿巡査駐在所が設けられ,昭和18年まであった。同30年旧千綿村としてはじめて千綿保育園設置。昭和21年10月北側台地の旧軍用地を中心として県立女子修練農場が開設され,のち県立女子高等農学園となった。女子の農業後継者の養成機関として全国的に有名。同54年県立農業経営大学校が併設された。鎮守水神宮に奉納された人形芝居(3人操り)は昭和39年県無形民俗文化財に指定された。昭和49年の世帯数208・人口919。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7221174