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高来東郷
【たかくとうごう】


旧国名:肥前

(中世)鎌倉期~南北朝期に見える郷名。肥前国高来(たかき)郡のうち。高来郡内で,伊佐早荘を除いた地域を東西に分けた東側を称したものらしい。中世の神代村・土黒村から有間荘・加津佐村・串山郷に至る広い範囲にわたっていた。正応5年8月16日の肥前河上宮造営用途支配惣田数注文に「公田分」として「高木東郷二百五十四丁」とあり,本来国衙領であったことがわかる(河上神社文書/鎌遺17984)。しかし,鎌倉初期承久3年8月30日の関東裁許下知状によれば当地は平家没官領と考えられ,本所は仁和寺で,早い時期に荘園化していたものと思われる(保阪潤治氏所蔵文書/同前2819)。正応5年当時の地頭は武蔵国御家人野本行員であったが(同前),文永2年7月29日の大宰府守護所使等傷実検状には高来東郷惣地頭として越中長員の名が見える(深江文書/同前19322)。「吾妻鏡」寛元4年3月13日条に越中政員が有馬朝澄と高来郡串山郷について相論したことが見え,寛元2年6月27日条には有馬朝澄が高来東郷地頭職について幕府に訴えた記事があるので,東国御家人越中氏は寛元2年以前に高来東郷惣地頭職を野本氏から引き継いだものと考えられる。惣地頭越中氏は,高来東郷深江村小地頭安富氏と領主権をめぐって相論を繰り返しているが(同前/佐賀県史集成4),鎌倉末期以後史料上から姿を消すので,九州に土着しなかったものと考えられている。永仁年間頃から,史料に「高来東郷」とともに「高来東郷庄」も見えるようになるが,正安2年12月7日の仁和寺領肥前高来東郷荘深江村年貢請取状に「御室領肥前国高来東郷庄」とあることから,これは従来の高来東郷の内,在地土豪の荘園を除いた地域を称したものではないかとおもわれる(同前/鎌遺20678)。南北朝期には,康永4年10月27日の足利尊氏下文写によれば高来東郷内三会村地頭職が開田遠長に安堵され(正閏史料二之一所収厚母文書/南北朝遺2148),貞和元年12月27日の足利直義下文案によれば有家(ありえ)・有馬両村地頭兼預所職が開田遠員に安堵され(内閣文庫所蔵古文書集廿三所収/同前2171),貞和2年6月12日の高師直奉書によれば高来東郷加津佐村半分が開田遠員に預け置かれており(深江文書/同前2209),深江村を拠点とする安富氏と並んで開田氏の活躍がうかがえる。また,御墓野重能は貞和6年10月日の申状で高来東郷御墓野村地頭職の安堵を求め,同年11月3日に足利直冬により安堵された(杉本豊作所蔵文書/南北朝遺2905)。正平17年8月22日の菊池武照(か)寄進状や正平21年12月9日の大智譲状には,大智禅師が高来東郷で加津佐を中心に宗教活動を行っていたことが見える(広福寺文書/同前4387・4653)。高来東郷は,文中2年12月13日の有馬澄隆田地去状に「高来東郷土黒村」と見える以降史料に現れなくなる(同前/熊本県史料中世編1)。南北朝の動乱の中で高来東郷内の所々も諸豪族の私領としての色あいを強め,「仁和寺領高来東郷」が崩壊した後,地名も意味を失い用いられなくなっていったのではないかと思われる。現在の国見町から島原市を経て加津佐町・串山町に至る,島原半島の東半分に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7221470