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多良越
【たらごえ】


江戸期の道路名。大道筋の途中に所在する山道。佐賀藩の慶安2年御国中所々道法帳によると,肥前国大道筋は筑後境から長崎まで陸地33里9町33間,道筋は佐賀から小田町―高町―塩田町―浜町―多良村―湯江村―諫早(いさはや)町を経て長崎町札ノ辻に至る。この間「北多良村より里湯江村迄三里拾弐町」(後には通常4里とする)が多良越の山道で,「此間坂,内二町程難所」としている。はじめ佐賀藩ではこのルート(浜通り)を本通りとしていたものとみられる。崎陽群談(享保元年)も,長崎から中部・南部九州の諸城下に至る陸地道程には浜通りを多く挙げ,逆に彼杵―嬉野―塩田経由の本街道を用いた例が少ないのは,正徳・享保年間頃もなお概念的には浜通りが重くみられていたためであろう。浜通りは多良越の難所があり,有明海の舟便が便利など各種事情で一般旅行者には敬遠されたが,佐賀藩では長崎警備の往来にあたり他藩領内の通行がないことからこの街道を利用し,多良越途中の水茶屋に至るまで非常用備蓄を命じている。長崎をたてば7里で諫早,さらに3里で湯江宿,そこから北に向かい多良越にかかる。長い坂の山道を登り太良岳大権現の一の鳥居の前,一里松などを過ぎて山茶花峠に達する。そこから藤津郡の糸岐村へ下り多良宿に至った。多良からはまた山手の路を通って佐賀藩諫早領矢答から鹿島支藩領船越を通り浜宿に出た。湯江・多良両宿は矢上宿とあわせて「諫早三宿」と呼ばれ,上使屋も置かれていた。山茶花の地名は峠の茶屋に山茶花の大木があったからだという。その茶屋跡の前には構口らしい石垣が残る。近くには藩主の駕籠立場もあった。少し離れて明治初年の郡境石柱が立っている。明治14年県治統計表にも,多良越往還として永昌(旧栄昌宿)から佐賀県鹿島・六角を経て同県牛津に至る22里9丁20間(87km余)があげられている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7221633