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出来大工町
【できだいくまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は長崎外町の1町。陸手(おかて)に属した。長崎港に注ぐ中島川下流右岸に位置する。はじめ新大工町のうちであったが,寛文12年分離して成立した。新大工町の下手にあたることから下大工町,町内に桃の木が多く植えられていたことから桃の木(樹)大工町とも称された。享和2年の長崎絵図によれば,長崎の北東端,堂門川が中島川に合流する右岸に立地し,町並みは東西に延び,西は大井手町に隣接していた。寛文12年の町の長さ298間,実箇所数73,諸役御免箇所3(県史対外交渉編),文化5年の長崎市中明細帳によれば,坪数4,838坪余,箇所数75,竈数184,戸数214・人数478(男249・女229)。地内には正保3年開創の曹洞宗月桂山光雲寺,同2年開創の真言宗宝林山青光寺(のち廃寺),卜意によって架けられた桃渓橋(市文化財)などがある。乙名職は,延宝4年頃は岡崎喜兵衛であったが,元禄12年に若杉善右衛門が任じられて以来,作太郎(宝永6年~享保5年),喜得郎(享保5年~明和3年),才右衛門(明和3年~安永3年),官兵衛(安永3年~天明8年),喜得郎(寛政元年~天保13年),得重郎(天保13年~安政5年),常十郎(安政5年~明治元年)と,若杉家が相続した。明治11年長崎区,同22年長崎市に属す。大正期の「長崎市分割地図」によれば,地内には洋服屋・医院・石鹸製造所・鉄工所などがあった。昭和3年の戸数140,同10年の戸数139・人口650,同50年の世帯数124。同56年一部が新大工町・伊勢町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7221754