豊崎郷
【とよさきごう】

旧国名:対馬
(近世)江戸期~明治5年の郷名。対馬国上県(かみあがた)郡のうち。対馬藩領。中世の対馬国に特有な変則的郡名を古制の郷に復したもので,中世の豊崎郡の郡域をそのまま郷域とする。この改称の時期は,宗氏の発給文書としては貞享5年(元禄元年)の宗義真の書下を最後に郡名の呼称が見えなくなり,元禄12年測量,同13年完成の対馬国郡地図に郷名が記載されることから,元禄年間のこととされている。対馬八郷の1つ。元禄12年郷村帳(県史藩政編)によれば,所属の村は豊・泉・西泊・古里・比田勝・網代・富浦・唐舟志(とうじゆうし)・津和原・久須・大増・舟志(しゆうし)・五根緒・鰐浦・大浦・河内・西津屋の17か村,田・畑・木庭高の合計2,949石余,物成737石余。「津島紀事」では本村17・枝村1の合計18か村,その村名は西津屋・左河内・河内・大浦・鰐浦・豊・泉・西泊・古里・比田勝・網代・富浦・津和原・唐舟志・浜久須・大増・五根緒・舟志とあり,また「北至于海岸,東亦至于海岸,東南至于伊奈郷界,西南至于佐護郷界,西北至于海岸」と記される。「新検上畠廻し」(寛文検地)による新間高は,御公領62間余・侍間36間余・給人間45間余・郡地2尺余・百姓地8間余・寺領2間余・社領2分余の合計156間余(県史藩政編)。元禄年間の給人・足軽数は給人55・足軽2(猪鹿追諸覚書/県史藩政編)。宝永年間頃の20歳以上60歳以下の人数496,うち給人59・足軽7・猟師99・新猟師108,辺境防備や猪狩のために配分される鉄砲の予定数273(鉄砲格式僉議/同前)。元文5年の公役銀高5貫388匁7分(八郷公役銀高之内十ケ年之間四分一上納被差延候始終之記録/同前)。同年の孝行芋(薩摩芋)生産高4,036俵(県史藩政編)。嘉永3年の給人数は旧家(義智以前の判物をもつ者)40・中家(貞享4年御判物を先規の如くもらった者)12・新家(貞享5年以降の家柄)26・馬廻格17・のし目御免5・平給人47・宮原党9(同前)。文久元年の惣出来高御年貢并知行公役銀人数家数孝々芋出来高牛馬数調帳によれば,籾麦4,122石余(うち種用374石余・肝入領8石余),物成934石余(うち上納606石余・神祭用3石余),給人足軽領311石余(うち寺社領13石余),公役銀9貫518匁,家数414(うち寺19),人高(人数)2,588(男1,020・女1,185・10歳以下383),孝行芋2万6,801俵,牛数400・馬数281(県史藩政編)。明治4年厳原(いずはら)県,伊万里県,同5年佐賀県を経て,長崎県に所属。同年区制施行にともない郷名は廃止となった。旧西津屋村が現在の上県町に属すほかは,現在の上対馬町に属す。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7221878 |





