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浪の平町
【なみのひらまち】


(近代)明治元年~現在の町名。はじめ長崎町,明治11年長崎区,同22年からは長崎市の町名。昭和49年までは浪ノ平町と書いた。長崎湾東岸に位置する。もとは戸町村大浦郷字浪ノ平の海岸で,万延元年山畑を崩し,海陸を平均して造成した区域。住民の歴史は居留地造成で生業の途を失った大浦舟津の浦百姓82軒を,内外人雑居を避ける目的もあって,同年12月ここに移したのに始まる(小曽根町築地の始末について/大村史談第8号)。町名設置については,「幕府時代の長崎」に浪ノ平町は明治維新後の新設町とあり,「長崎市制六十五年史」前編には明治元年町名を付して長崎の市街に編入とある。町名はこの付近の字名浪ノ平(浪之平)による。字名の語源は波静かな内海,波により平になった浜辺などの説があるが,あるいは波の迫るヒラ(傾斜地・崖)の意によるか。明治10年小曽根乾堂が寺地を寄進して曹洞宗天長山大平寺を町内に移建した。明治20年尋常小曽根小学校を町内に移建して尋常鎮鼎小学校,同26年鎮鼎尋常小学校に改称,同32年鎮鼎高等小学校,同41年浪ノ平尋常高等小学校,同43年浪ノ平尋常小学校に改め,大正6年南山手町通りへ移転(現浪平小学校)。大浦住民の移転後まもなくできた浪ノ平遊郭は,明治3年末に外人相手をも許可され,同24年頃は14軒を数えて繁盛したが,山手居留外人の抗議もあって,同25年大浦郷字笑河内(のちの大浦出雲町内)などへ移転。浪ノ平海岸通りは,日露戦争前まで冬期停泊ロシア艦隊相手の商売が盛んで,海岸には石炭補給のダンベ船が並んだ。大正期~昭和初期は,月1~2回,数隻中1隻ずつ入港するカナダの世界一周船エンプレス号への石炭あげでにぎわった。また地内には対岸の三菱重工長崎造船所通勤者が多かったので,月2回の三菱勘定ごとに夜店が繁盛した。明治19年の戸数170・人口948(長崎市制六十五年史),昭和10年の戸数232・人口1,039,同35年の世帯数214・人口945。海岸線は工業地域で,長崎造船(昭和27年創立)・佐藤造船鉄工所など計4社の中小造船所が並ぶ。昭和49年一部が南山手町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7222075