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東彼杵郡
【ひがしそのぎぐん】


(近代)明治11年~現在の長崎県の郡名。明治11年郡区町村編制法の施行により,彼杵郡が東・西2郡に分割されて成立。明治11年10月28日の長崎県達甲第121号の布達別紙によれば,大村町に郡役所を置き,三浦・鈴田・大・竹松・萱瀬・福重・松原・千綿・彼杵・川棚・宮・下波佐見・上波佐見・早岐(はいき)・広田・折尾瀬・江上・崎針尾・日宇・佐世保の20か村と大村町の1か町を管轄した。明治22年市制町村制実施により,当郡は大村町,大村・西大村と日宇・竹松・福重・松原・萱瀬・三浦・鈴田・佐世保・早岐・広田・折尾瀬・江上・崎針尾・宮・彼杵・千綿・川棚・上波佐見・下波佐見の各村,計1町21か村となった。明治35年佐世保村は分村し,一部は佐世村となり,その他の地域は市制を施行して佐世保市が発足。大正12年早岐村が町制を施行。同14年大村に大村を合併。昭和2年広田村を早岐町,佐世村・日宇村を佐世保市に合併。同9年川棚村・上波佐見村が町制を施行。同14年大村町に西大村・竹松村を合併。同15年彼杵村が町制を施行。同17年大村町・福重村・松原村・萱瀬村・三浦村・鈴田村が合併して大村市が成立。同年早岐町を佐世保市,同18年彼杵町の一部を川棚町に合併。同30年折尾瀬村・江上村・崎針尾村,同33年宮村を佐世保市に合併。昭和31年上波佐見町と下波佐見村が合併し波佐見町,同34年彼杵町と千綿村が合併し東彼杵町となる。同35・37年波佐見町の一部を川棚町へ編入。同38年東彼杵町の一部を大村市へ編入。同52年川棚町と波佐見町が境界変更。現在東彼杵町・川棚町・波佐見町の3か町からなる。明治15年の郡内の炭鉱は,炭坑数69・借区坪数18万8,000坪,営業者数95,稼業日数63,掘出高1,119万5,000斤,価額9,110円(県鉱山統計書/県史近代編)。同23年の戸数1万5,168・人口6万7,219,反別は1万2,116町1反,地租は9万5,176円。同26年の商業戸数は,問屋6・仲買59・卸売92の合計157。同44年の主な畑作物の作付面積は,大麦308町余・裸麦3,444町余・小麦1,401町余・大豆1,613町余・粟87町余・甘藷2,493町余(以上,県統計書/県史近代編)。大正4年の「長崎県大観」によれば,郡役所を大村町に置き,物産については,主要農産物の生産価額は米154万円余・麦43万円余・甘藷27万円余・大豆10万円余の順,園芸作物は蘿蔔9万円余・瓜類4万円余・柑橘4万円余・馬鈴薯3万円余・柿2万円余の順,漁業は多くの町村が大村湾に臨むが,いずれも小規模な操業で,主な漁獲価額は鯛2万円余・鰕2万円余・黒鯛1万円余の順,特産品としては大村湾の真珠,折尾瀬村の三川内・江永・木原,上波佐見村の中尾・三股・永尾,下波佐見村の稗木場で焼かれる陶磁器などであり,ほかに茶・薪炭材の生産も有名であった。明治41年の諸統計をみると,戸数1万5,610・人口8万894,産業別生産額では農産209万円,家畜家禽6万円,林産17万円,水産15万円,鉱産1万円,工産92万円となっている(県統計書)。大正4年には,戸数1万5,685・人口8万8,087,田5,730町,畑5,731町,山林4,959町,産業別生産額をみると,農産221万円,畜産7万円,林産29万円,水産14万円,鉱産7,000円,工産126万円であった(東彼杵郡誌)。大村湾は真珠の産地として知られ,江戸期には藩の独占事業として行われていたこともあって,真珠の品質の優秀さは海外まで有名であった。そのため,指輪などの装飾用として大部分欧米に輸出され,大村では大正初期には年間2万円の生産額をあげていた。大正元年から真珠の貝殻を利用した釦の製造も行われ,大村町の年間生産額は7万円に達していた。陶磁器は折尾瀬村・下波佐見村・上波佐見村を主な産地とし,製品は日用食器・高級食器・装飾品などで朝鮮・中国・米国などへも輸出された。大正初期の職工数約1,200人・生産額は33万円(長崎県大観)。主な茶の産地は千綿村・彼杵村で,大正10年の生産額は13万円(県統計書)。大正9年の国勢調査によると,産業別人口は農業2万5,992,水産業1,532,鉱業230,工業6,105,商業3,811,交通業1,397,公務・自由業3,846。大正4年の当郡の諸施設は,尋常・尋常高等小学校24校,中学校1校,女学校1校,実業補習学校6校,銀行8行であった。同8年の農家戸数1万1,697,水田面積5,740町・畑地面積5,750町の合計1万1,491町,水田率49.9%,二毛作田52.6%,農家1戸当たり耕地面積9反余,小作地率46.9%で,水田地帯と特徴づけられる。また,同年の林野面積は立木地9,371町余・無立木地(原野)2,936町余の合計1万2,307町余,うち公有林3,673町余・民有林8,618町余(以上,県統計書/県史近代編)。小作地率の推移は,明治20年47.7%,同44年48.1%,大正5年46.8%,同11年44.5%,昭和4年43.5%,同14年45.0%(県史近代編)。大正12年郡制は廃止され,追って同15年には郡役所が廃止され,以後郡は単なる地理的名称となる。当郡役所は長崎師範学校専攻科生の寄宿舎に転用された。世帯数・人口は,大正9年1万8,044・9万776(男4万5,414・女4万5,362),昭和10年1万6,735・8万9,924(男4万4,961・女4万4,963),同25年1万2,323・6万9,740,同55年9,923・4万330(男1万9,262・女2万1,068)。




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「角川日本地名大辞典」
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