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深堀領
【ふかほりりょう】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の佐賀藩の飛地領名。肥前国彼杵(そのぎ)郡・高来(たかき)郡・三根郡・神埼郡のうち。佐賀藩の家老を勤めた深堀鍋島氏の知行地。深堀氏が本居とした長崎半島西部は,中世では彼杵荘戸町(戸八)浦といわれていた。深堀氏がこの地の地頭職を得たのは,建長7年のことであった。深堀氏は三浦氏の一族で,上総国伊南荘深堀(現千葉県大原町深堀)を本貫地とする御家人であったが,深堀仲光の時,承久の乱の戦功により,最初摂津国吉井新荘(一部)などを給されたが,その子能仲はこの勲功地の替地をしばしば申請し,筑後国甘木村(一部)を経て,ようやく戸町(戸八)浦と呼ばれた彼杵荘のこの地の地頭職を獲得することに成功した。そして,鎌倉幕府の強大な勢力を背景として,彼杵荘の惣地頭代であった戸町氏を圧迫した。当初,深堀能仲は本貫地の上総国深堀に居住したままで,戸町浦の経営はその子行光が代官として派遣されていた。しかし,鎌倉後期の行光代頃から本拠をこの戸町浦に移すことになった。そして,戸町浦のなかでも深堀と命名した地を本拠地とするとともに,高浜には高浜氏,切杭には野母氏といった庶家一門をおき,戸町氏を圧迫し,長崎半島における領主権を進展させたらしい。鎌倉幕府の滅亡からそれに続く南北朝の動乱,そして戦国期になって,深堀氏の長崎半島における領主権は安定した。しかし,戦国期も末期になると,現在の長崎県の南部地方の中小豪族は,大村・有馬・西郷の3氏のもとに統合されるような情勢となっていった。深堀氏も,15代貴時の頃は有馬氏と同盟関係にあったようであるが,17代善時は有馬氏から離れ,西郷氏と結ぶようになった。さらに,善時の娘真法尼は完全に有馬氏から離れ,西郷純尭の弟純賢を養子とし,西郷氏との連繋を確固たるものとした。天正12年竜造寺隆信について有馬と島津の連合軍と戦ったため,一時は有馬氏や島津氏の脅威にさらされたが,同15年豊臣秀吉によって本領が安堵された。しかし,同16年秀吉は純賢が海賊行為を行ったことを理由に純賢の所領を没収し,没収所領のうち川原(西彼杵郡三和町),高浜,野母(いずれも同郡野母崎町)の3か村1,000石は小倉城主毛利吉成(6万石)に,残りは長崎代官鍋島直茂に与えられた。所領を没収された純賢は,一時佐賀の嘉世荘に隠居したが,ほどなく旧領を回復することができた。ただし,毛利吉成に与えられた川原・高浜・野母の3か村は除かれた。この3か村の代わりに筑前国の戸萱・平山の2か村1,000石を給されたが,これは純賢が直茂について朝鮮出兵に参戦するなど佐賀藩の重臣の1人に取り立てられたことによる。佐賀藩の始祖直茂は,竜造寺隆信の重臣の1人であったが,隆信の戦死後は事実上竜造寺家を支配し,さらには豊臣秀吉によって佐賀藩35万7,000石の支配を認められた。そこで,竜造寺氏の庶家一門は順次佐賀本藩の家臣団に組みこまれていった。佐賀藩は本藩を頂点に,小城(7万3,000石)・蓮池(5万2,000石)・鹿島(2万石)の3支藩,白石(鍋島氏,2万276石)・川久保(鍋島氏,1万石)・久保田(村田氏,1万770石)・村田(鍋島氏,6,000石)の御親類,諫早(いさはや)(諫早氏,2万6,200石)・武雄(鍋島氏,2万1,600石)・多久(多久氏,2万1,734石)・須古(鍋島氏,1万1,000石)の御親類同格,深堀(鍋島氏,6,000石)・神代(鍋島氏,6,262石)など全部で6家の家老などがあった。秀吉に所領を没収されるまでは深堀中務少輔と称した純賢も,鍋島左馬助茂宅と改め,さらには佐賀藩2代藩主勝茂の命により,重臣石井安芸守の夫人を後妻とし,その子孫六郎(茂賢)を養子としたことで,完全に佐賀藩の家臣団に組みこまれ,本藩の家老として,茂宅以降,茂賢(七左衛門)・茂里・茂春(官左衛門)・茂久(官左衛門)・茂厚(七左衛門)・茂雅(七左衛門)・茂陳(安芸守)・茂矩(淡路守)・茂辰(官左衛門)・茂勲(官左衛門)と,大体官左衛門か七左衛門を称して幕末・維新に及んだ。その知行は,「大小配分石高帳」では物成2,400石(知行高6,000石)で,三根郡綾部郷1か村・地米372石余,神埼郡上西郷2か村・地米232石余,高来郡10か村・地米924石余,彼杵郡深堀14か村・地米969石余とある。深堀領の主な地域は,深堀郷と呼ばれる彼杵・高来両郡内の村々で,深堀本村とこれに隣接する戸町村・平山村・土井頸村・小ケ倉村・竿浦村・大籠村・蚊焼村・香焼(こうやぎ)村・伊王島村・神ノ島村(以上,彼杵郡内),御崎村・為石村・布巻村(以上,高来郡内)で,このほか大村領内に樫山村・平村・長田村・黒崎村・出津(しつ)村(以上,彼杵郡内),諫早領内に八丁分・有喜村・小栗村・中山村・福田村・深海(ふかのみ)村(以上,高来郡)などの飛地があった。特に,大村領内の樫山村・黒崎村などの飛地は,さらにこのなかに大村領の飛地が点在するというように複雑なもので,のちにキリシタンが潜在する要因ともなった。深堀氏の中世期の城砦は,深堀城(俵石城)と呼ばれる城山で,現在でも土塁や石垣などの遺構が残っている。近世期の深堀の城下町としての形態は,町屋と接する城下町の入口に東屋敷(三番家老樋口氏宅)・中屋敷(筆頭家老深堀氏宅)・西屋敷(二番家老田代氏宅)と呼ばれた家老屋敷を配し,さらに中・下級武士の屋敷の奥に御屋敷と呼ばれた陣屋(御座は2階建)があった。鍋島家の屋敷は,他に佐賀城二の丸内にもあり,長崎との連絡調整にあたった蔵屋敷は浦五島町(現長崎市五島町の中村倉庫の地)にあった。陣屋のさらに奥には,寛喜元年の創設と伝えられる鍋島家の菩提寺である曹洞宗金谷山菩提寺があり,境内の鍋島家墓地には19代茂賢から28代茂勲までの12基の墓碑(29代茂精以下は合葬)があり,長崎市内唯一の領主の墓地として,現在長崎の市史跡に指定されている。一方,この鍋島家には元禄13年に深堀騒動と呼ばれる大事件が起こっている。この深堀騒動というのは,代物替会所頭取高木彦右衛門の西浜町の屋敷へ鍋島家の家臣21人が討ち入り,彦右衛門らを斬殺したもので,赤穂義士の討入りの参考とされたといわれる。この事件によって,家臣12名は切腹,9名は五島へ流罪(宝永6年の恩赦で赦免),高木家は闕所となったが,領主鍋島官左衛門はこの時佐賀に行っていて留守であったとのことで御構なしとなった。明治4年の廃藩置県によって佐賀藩は佐賀県と改称されたので,深堀領も佐賀県に属することとなった。なお,同5年1月,旧佐賀藩領であった高来郡39か村と彼杵郡6か村の全部が長崎県に編入されることになる。




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「角川日本地名大辞典」
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