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宝円寺
【ほうえんじ】


大村市の池田山にあった寺。古義真言宗。多羅山千手院と号す。本尊は不動明王。領内四か本寺の1つ。もとは太良岳山金泉寺。寺伝では,和銅年間に僧行基が松原浦で奇異な影を波間に見た。合掌・礼拝するとその影は郡岳の嶺へ飛来した。行基が行ってみると,弥陀・釈迦・観音の3像があった。嶺に堂社を建て,この3尊を太郎山大権現と称し,神宮寺(太良岳山金泉寺)を置いた(大村郷村記)。以後の寺歴は未詳。大村純伊の三男,大阿闍梨法印阿音を中興開山とする。のち大村家代々の祈願所となり,寺領46石を大村・萱瀬両村で有した。ルイス・フロイスの「日本史」にも「そこの多良岳という裕福な僧院には,大村全域における仏僧の首領がいた」と記されるほど,有力な寺院であった。天正2年のキリシタンの社寺焼打ちに遭い焼失。この時,郡村極楽寺住持阿金(後の金泉寺3世)は諸社寺の神体・仏像を運び出し,藤津郡嬉野に草庵を結び,大定寺の旧跡にこれらを安置した。江戸期に入りキリスト教が一掃され,社寺が再建される。大村純信は阿金の法孫寛盛を大村へ迎え,観音寺を再興し,万治3年当寺も再興。その際,従来の太良岳は遠隔地のため,大村城の艮の方向に当たる池田山の勝地を寺地に選定し,神社・仏閣を創建。寛盛は師尊覚を開山とし,多羅山千手院宝円寺と改称した。多羅は観世音の尊称,千手院は多羅山大権現の本地千手観音,宝円は金泉寺3世宝円坊阿金の僧名にちなむ(大村郷村記)。京都仁和寺を本寺とし,5末寺・2塔頭を有した(同前,肥前国古義真言宗本末帳/江戸幕府寺院本末帳集成)。寺領は再興時に長久寺・観音寺・本堂の寺領を宝円寺に集めて80石とした。のち脇坊千院に40石を寄進されたが,脇坊退転後はまた80石にもどり,のち75石となる。境内は東西200間・南北250間(大村郷村記)。宝円寺は大村藩の祈願所であり,檀家は安政3年の調査でも169人と少ない。領内各戸から1戸宛3文の上納金によって維持された。明治4年の廃藩置県による打撃は大きく,大村藩の解体で宝円寺の経済基盤は崩れ,廃寺となる。本堂はその頃焼失していた福重矢上の妙宣寺に解体移築され,妙宣寺本堂として用いられた。現在,一帯は熊野神社の神域で,100段の石段が残っている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7222765