御墓野
【みはかの】

旧国名:肥前
(中世)平安末期から見える地名。肥前国高来(たかき)郡高来東郷のうち。御墓野村とも見える。「宇佐大鏡」所引の保安3年の宇佐宮領高来郡油山十二箇所立券文に「一所谷上山〈四至 東限海 南限高来河 西限山 北限大墓 島原八段 御墓野一丁二反〉」とあり,谷上山の内の島原8反,御墓野1町2反が宇佐宮領とされた(宇佐到津文書/大分県史料24)。下って文治2年4月29日の綾部幸房譲状によれば,在地領主綾部幸房は先祖相伝の所領である宇佐宮領「伊福・大河・伊古・御墓野」を四男幸明に譲与している(大川文書/鎌遺91)。御墓野は鎌倉期以降綾部氏(大川氏)の所領としてあらわれる。建保5年9月14日の肥前高来郡内宇佐宮領立券文に「一,今村 四至 東限海,南限三波加野場〈上者傍仕尾,下者仏石〉,北限 上者堀 下者楠江,西限横道」と見え,今村の四至の南限に「三波加野場」がある(同前/鎌遺2335)。今村は大河村や伊福村とともに同文書に記され,大川氏の所領であったが,元は御墓野の一部であった可能性がある。ところで,御墓野を苗字とする武士として鎌倉末期には「御墓野六郎太郎入道」が見え(淀姫文書/姓氏家系大辞典),下って,貞和6年10月日の御墓野重能申状によれば,御墓野重能は「相伝当知行無相違」き所領として「肥前国高来東郷御墓野村田畠荒野」などを安堵されんことを足利直冬に申請している(杉本豊作所蔵文書/南北朝遺2905)。これらより御墓野を苗字の地とする武士が生まれたこと,御墓野が高来東郷に含まれていたことが知られる。当地の遺称地は現在残っていないが,「宇佐大鏡」によれば,島原の近接地にある。また,建保5年9月14日の高来郡内宇佐宮領立券文では今村(江戸期の島原村のうち今村名)と北の堺を接していること,また,東側が海となっている地形などのことを考え合せると,現在の島原市島原(大字なしの地域)付近に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7223064 |