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眼鏡橋
【めがねばし】


諫早(いさはや)市,本明川に架けた橋。古町と五反屋敷を結ぶ市街地に架かっていたが,昭和32年の諫早大水害のとき,流れた家や流木をせきとめて大惨事を起こす。水害後本明川改修のため,解体して約500m上流の諫早公園に復元した。橋長49.2m,幅員5.5m,径間18.1mの,大径間2連のアーチ式大石橋。創設は天保10年8月で,諫早領主が架けた。諫早大水害後昭和34年4月に解体,同35年12月1日復元工事着工,同36年9月30日移築復元完了。本明川は昔から暴れ川で,元禄12年の大洪水でも死者487名の大被害を受けたが,260年後の昭和32年にも大氾濫して死者539名。市の9割が崩壊して世界でもまれな局地被害を生む。このため橋を架けてもすぐ流され,眼鏡橋を架ける前は,30年間も本明川に橋が1つもなかった。しかし幕府の上使が来るのに橋がなくては恥なので,この際永久に流れない橋をとの領民の願いもあって,当時日本一の大石橋に挑んだ。アーチ技術は江戸期では極めて難しい技だったが,長崎で蘭学を勉強した藩士がアーチ技術を習って取り組んだ。藩庫から費用の3分の1,残り3分の1は領内の僧侶が九州各地を托鉢して喜捨を集め,残り3分の1は領民の労力奉仕で賄った。大金を注ぐ橋だから二度と流れないよう苦心し,アーチ石は1個1個太枘(だぼ)鉄で繋ぐなど万全を期したので,その後何度も襲った大洪水にも耐えてきたが,昭和32年の大洪水では強すぎたため,流れた家や流木をせきとめてここだけで150名の死者を出した。川幅を20m拡幅するため眼鏡橋は取り壊す予定だったが,国重文に指定後移すため解体したら,中央基礎に有明海のヘドロが現れた。現代工学では考えられない大石橋のヘドロ基礎だが,いまだに解明できないヘドロ構造は,眼鏡橋の謎でもある。眼鏡橋には人柱が立ったとの伝説があったが,人骨は出なかった。ただ中央部の基礎敷石に,遺骨を入れたとみられる直径60cmの孔あき石があった。石を山から切り出すときに犠牲になった領民の遺骨を穴に入れ,その霊が眼鏡橋を守ってくれるよう祈って底に埋めたと思われる。これが人柱の伝説になったのか。眼鏡橋は階段で登り降りし,橋の中央が下がる珍しい構造だが,この形はわが国では他にない。人々が自由に往来する公道橋は国の文化財基準に外れるので今までは指定されなかったが,公園に移せば洪水で流れる心配もなく,石も大きいので簡単には傷付かないことから,昭和33年11月29日付で国重文に指定された。眼鏡橋が公道橋の国指定の途を開いた結果,長崎市の眼鏡橋など今日まで7つの石橋が国指定となる。眼鏡橋は諫早市の象徴として市民に親しまれてきたが,里謡にも「いさはやのめがねばし,いきもどいすればおもしろかない」とうたわれ,25文字の数え歌として子供が数字を覚える場でもあり,親子の遊び場でもあった。眼鏡橋は水害の元凶と憎まれ壊される運命だったが,江戸期に領民一丸となって架けたいわれとともに,市民の象徴だったため,諫早公園に復元して歴史を伝えている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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