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寄合町
【よりあいまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は長崎外町の1町。長崎港に注ぐ中島川下流左岸に位置する。もとは現在の古町の地にあり,町名は今博多町・大井手町・八幡町などにあった遊女屋を寄合わせて成立したことに由来する。寛永長崎港図には,のちの桶屋町周辺に「寄合町通り」と記されており,丸山の太夫町(のちの丸山町)とともに遊女町であった。寛永19年(一説には16年)に集娼制度がとられ,市内の遊女屋はすべて丸山の地に集められることになったため,太夫町の隣接地に移転,跡地は古町となった。享和2年の長崎絵図によれば,長崎の南東部に立地し,町並みは東西に延び,丸山町とともに「傾城町」と記されている。正保4年の長崎外町ケ所数之帳では箇所数46(柏原家文書),寛文3年の町の長さ266間・家持47(寛宝日記),同12年の町の長さ280間,実箇所数50,諸役御免箇所3(県史対外交渉編),文化5年の長崎市中明細帳によれば,坪数4,664坪余,箇所数52,竈数71,戸数76・人数838(男145・女693)。乙名職は,明暦年間に北島新五右衛門とあるが,延宝年間に芦苅源右衛門が任ぜられてからは,善太夫(享保年間),猪之八(宝暦年間),善太夫(明和年間),高之進(天保年間),善太夫(嘉永4年~明治元年)と芦苅家が相続した。延宝年間刊「長崎土産」には,博多屋・生肴屋・大坂屋・豊後屋・引田屋など遊女屋44軒,遊女数431人(太夫58人)とある。特に引田屋は,寛永年間の創業と伝えられ,袖咲・袖笑・其扇などの名妓でも知られる。また,文政初年頃に庭園内につくられた花月は当時の文人サロンとして,内外の人達によく知られていた(県史跡)。安政6年の調査では,筑後屋・引田屋など遊女屋16軒,遊女数321人,大正14年の調査では,松鶴楼(娼妓数31)・山遊楼(同17)・新月楼(同17)・第2大富楼(同17)・梅月楼(同17)・大和屋(同17)・梅鴬楼(同15)・花月楼(同14)など貸座敷数21軒,娼妓数284人とある。明治11年長崎区,同22年長崎市に属す。昭和3年の世帯数147,同10年の世帯数138・人口929,同50年の世帯数291,3街区。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7223343