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上津久礼村
【かみつくれむら】


旧国名:肥後

(近世)江戸期~明治9年の村名。合志(こうし)郡のうち。白川中流右岸に位置する。熊本藩領。村高は,「寛永郷帳」530石,「正保郷帳」も同高ですべて畠方,「天保郷帳」932石余,「旧高旧領」では「上津久連村」と見え1,025石余。江戸末期までに新町を分町。はじめ津久礼組に属し,集落は白川沿いにあった。「肥後国誌」では大津手永に属し,高957石余,神社は若宮社などで,当村のうちとして新町が別記される。また集落は延宝初年に久保田往還(殿様往還)沿いに移動したという。寛永10年の人畜改帳によれば,上津久札村出分も合わせて,戸数21,畠高700石余,家数150,屋敷反別3町余,牛34・馬36,人数は男106・女77,庄屋は五郎兵衛・勝左衛門・久兵衛と出分庄屋九郎右衛門。寛永12年の田畠地撫帳(県立図書館蔵文書)では,田5町7反余・分米89石余,畑30町4反余・分米223石余,ほかに田22町2反余・93石余は新物成永荒。当村は鈴木重武の開発に負うところが大きいという。明和元年の田畑地引合改見図帳(同前)によれば,田17町1反余・87石余,畑26町1反余・86石余。寛政7年の大津手永略手鑑(肥後藩の農村構造)によれば,高957石余,反別は田15町3反余・畑59町9反余,人数362,牛馬61,庄屋は左三右衛門,士席浪人衆6人,地内八窪に居住の地筒11人,社方1,大窪に出小屋1があり,馬口労札2枚が認められ,熊本札辻からの三里塚があった。熊本から豊後国鶴崎(現大分県大分市)に至る豊後街道のうち,当地域から大津に至る間は大津街道杉並木として有名。弓削(ゆげ)村との境界に境松があり,合志郡と飽田(あきた)郡を分けていた。当地域での街道幅は22間で,うち馬踏5間・道敷15間。文政元年この街道を通った頼山陽の詩に「大道平々砥不如 熊城東去総青蕪 老杉挟路無他樹 欠処時々見阿蘇」がある。街道の北約1kmに,街道に並行するように大津原地鉄砲集落の鉄炮町(通称鉄砲小路)があった。寛永13年細川忠利の命を受けて合志郡と飽田郡に置かれた八ケ所地筒のうち最大のものであった。明和3年の鉄砲小路の地引合下名寄帳によれば,御赦免開244町3反余,名請人90名(大津町史研究1)。鉄砲集落の北を流れる瀬田上井手の堀川は同集落の生活用水でもあった。阿蘇一宮・二宮神社があり,浄土真宗浄念寺がある。さらにその西方に八ケ所地筒の1つ花立の集落があり,その明和3年の地引合下名寄帳によれば,御赦免開48町7反余,名請人12人(同前)。さらにその東,八窪の地には,明和6年以後長岡監物の御家中地筒が置かれ,慶応2年の大津手永銘籍によれば,八窪居住地筒15人とある(同前)。若宮八幡宮の石鳥居の南西の宮の下の地にある石造眼鏡橋は,天保9年に瀬田下井手と津久礼井手の接する地点に架けられ,明治元年に架け替えられた。橋の全長14m,幅2.6m,高さ3.1mで,石工は戸次村治助(菊陽町の文化財1)。またかつて集落のあった白川畔で,施餓鬼会と呼ばれる精霊流しが行われる(同前)。熊本県を経て,明治5年白川県に所属。同9年鉄炮町が原水村の一部となり,残余は津久礼村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7224529