菊池
【きくち】

旧国名:肥後
菊鹿盆地東部,菊池川と支流迫間(はざま)川に挟まれた平坦地に位置する。当地は古く「くくち」と呼ばれていたと推定され,「魏志」の倭人伝に見える「狗古智卑狗」と関連させて「狗奴国」を当地に比定する説もある。奈良期には城名として見え,「続日本紀」文武天皇2年5月25日条に「令大宰府繕治大野・基肄・鞠智三城」と見え,「くくちのき」とよんだものと推定される(国史大系)。下って「文徳実録」天安2年閏2月24日条には「肥後国言,菊池城院兵庫皷自鳴」とあり,同じく同年6月20日条にも「大宰府言……又肥後国菊池城院兵庫皷自鳴,同城不動倉十一宇火」,「三代実録」元慶3年3月16日条にも「又肥後国菊池郡城院兵庫戸自鳴」と見える(同前)。「菊池城院」について,「肥後地志略」(肥後国地誌集)では,「菊池城院兵庫跡」を「菊池郡水島郷」,「不動倉跡」を菊池郡「米原村」に比定し,「菊池風土記」では「菊池城院」について「妙蓮寺よりもり山迄之間馬場筋を院の馬場と云云此名によりて考れば守山の上に平なる所有り此辺にてはなき歟分明ならず」とし,「不動倉」については「米原村内に在り」と記している。「院の馬場」について,「事蹟通考」は「陰ノ馬場ニテ古城所々ニ其例アリ院馬場ニ非ズ」としている。なお「肥後国誌」は,「菊池城院」を隈府(わいふ)町の項で解説している。当地は平安後期から見える菊池氏の根拠地で,「事蹟通考」所収の菊池系図によれば,大宰少監であった藤原則隆が菊池郡を賜って下向し,菊池を称したと伝える。しかし,「春記」長暦4年4月条には,肥後国の住人藤原則隆の子蔵隆が京都で前肥後守藤原定任を射殺したことと,則隆父子が大宰権帥藤原隆家の郎党であったことが記され,この頃には当地に土着していたと思われる(菊池市史)。平安末期の治承寿永の内乱時には,菊池隆直がはじめ平氏に反抗して挙兵し,のちに平氏に従ったため,本領を除いた所領は没収された(同前)。
【菊池荘(中世)】 鎌倉期に見える荘園名。
【菊池(中世)】 鎌倉期から見える地名。
【菊池村(近代)】 明治22年~昭和31年の菊池郡の自治体名。
【菊池町(近代)】 昭和31~33年の菊池郡の自治体名。
【菊池市(近代)】 昭和33年~現在の自治体名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7224736 |





