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甲佐神社
【こうさじんじゃ】


上益城(かみましき)郡甲佐町上揚にある神社。旧郷社。祭神は八井耳玉尊・健磐竜尊・蒲池媛尊・神倭磐余彦尊・媛蹈鞴五十鈴媛尊。甲佐大明神(国郡一統志)・甲佐三宮大明神社(肥後国誌)とも称した。正平16年8月日の甲佐社牒写(阿蘇文書/大日古13‐2)によれば,神功皇后の三韓出兵の際,天から金甲を授かり皇后の軍を助けたので,勅号により甲佐宮と称し,南郡管領の鎮守という。欽明天皇12年に社殿を建立とも(国郡一統志),仁寿元年9月9日に阿蘇大神を社地に勧請したともいい,この日が祭日に定められたが,現在は10月9日となった。宝徳2年に神倭磐余彦尊・媛蹈鞴五十鈴媛命を併祀し,阿蘇大宮司が現在地に移した(肥後国誌)。史料上の初見は康治元年12月日の阿蘇大宮司宇治惟宣解(阿蘇文書/平遺2497)で,御年貢惣結解事に「除甲佐定」とある。当社が健軍社・郡浦社同様に阿蘇社の末社となっている。健軍社・郡浦(こおのうら)社とともに阿蘇別宮または三末社と呼ばれ,また阿蘇本社を含めて阿蘇四か社とも称した。建久6年2月の肥後国司庁宣や同年2月8日の甲佐社領文書案には片寄内の甲佐社の一色不輸社領の村々が示されている(同前/大日古13‐2)。嘉元4年6月の昭慶門院目録(竹内文平氏所蔵文書/鎌遺22661)では,甲佐社の本家は安楽寿院で,領家は宰相典侍,年貢は2,000疋であった。元弘3年10月2日の後醍醐天皇綸旨(阿蘇文書/大日古13‐1)によれば,甲佐・健軍・郡浦3社の従来の本家・領家職を停止し,阿蘇本社に付している。建武元年7月19日の宇治惟平契状(同前)では,当社を肥後の二宮といい,宝治年間に下地を没収され,年貢・神用米とも停廃された守富荘の返還を求めている。延元2年5月18日には大宮司宇治惟時が天長地久・四海安全などのため御内郷を寄進した(同前/大日古13‐2)。延元5年3月4日の後村上天皇綸旨(阿蘇文書/大日古13‐1)も阿蘇本社の管領を再び安堵している。しかし社領守富荘居合田は河尻幸俊に押領され,正平5年8月に神官・供僧等はその返付を求め,同月18日に征西大将軍宮令旨で押妨をとどめた(同前/大日古13‐1・2)。しかし正平12年2月にも当社雑掌宗次は重ねて河尻氏の押妨を訴え,同16年8月にも名和顕興の当社領小河両郷の押領を訴えている(同前)。観応元年7月19日足利尊氏は大宮司惟時に阿蘇・健軍・甲佐・郡浦4社の管領を命じた(阿蘇文書/大日古13‐2)。応永31年11月20日の肥後海東郷甲佐三宮公事日記や同32年4月15日の肥後海東郷甲佐社免田社役次第によれば,当社の祭礼や社役などは海東郷の甲佐免田を充当している(同前/大日古13‐1)。永享7年には,菊池持朝が社家の不知行となっていた守富荘居合田を寄進している(同前)。小西行長の時に当社も破却されたと伝え,神体は山口の岩穴に隠され,小西氏の滅亡後に取り出したという(肥後国誌)。神宮寺は天台宗の例光山妙智院が勤めた(同前)。明治6年郷社に列格。同31年現社殿を建立。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7225080